K. 626 Mozart Requiem in D minor, Lacrimosa
【歌詞と対訳】
Lacrimosa dies illa,
qua resurget ex favilla
judicandus homo reus:
Huic ergo parce Deus.
pie Jesu Domine,
Dona eis requiem.Amen.
涙の日、その日は
罪ある者が裁きを受けるために
灰の中からよみがえる日です。
神よ、この者をお許しください。
慈悲深き主、イエスよ
彼らに安息をお与えください。アーメン。
モーツアルトのレクイエムは全11曲ほどあるのですが、レクイエムの作曲を依頼されたときは病にかかっており、「涙の日」を完成させる前に亡くなってしまいました。そのため、未完成だった「涙の日」や、それ以降のレクイエムはモーツァルトの弟子によって補作されています。純粋なモーツァルトの作とは言えない…といえますね。
これを言うと一部の人に叱られるかもしれませんが、実は私、モーツァルトの曲があまり好きではありません。美しく技巧的で、多くの人に愛されているのはわかるのですが、なんというか、曲の中を探してもモーツァルト自身が見つからないんです。人間味がないというか、ものすごく遠いんですよね。モーツァルトが。聴き手としての私が至らないだけのなのかもしれませんが。
しかし、「涙の日」だけはものすごく好きです。モーツアルトのレクイエムはフォーレ、ヴェルディのレクイエムと並んで「三大レクイエム」と呼ばれており、レクイエムの曲集には必ず収録されています。私がモーツァルトの「涙の日」を初めて聴いたのもそういう「レクイエム曲集」の一つでした。
聴いた瞬間「え?! これ、モーツァルトなの?」と度肝を抜かれたのです。なんせ、あんなに遠くにいて、人間味を感じさせてくれなかったモーツァルトが、嘆き、すすり泣き、のたうち回り、苦悶している…そんな印象を受けたのです。
「灰の中から蘇る罪人が許されますように」という歌詞(典礼文)なので、曲としては「第三者の安息を祈る」というものなのですが、個人的に受けた印象はモーツァルト自身が死を恐れ、蘇りを恐れ、裁きを恐れて自分のために祈っているというものでした。最後の「アーメン」なんて、血を吐きながら天に手を差し伸べて許しを願い乞うような、壮絶な印象です。
もともと、モーツアルトにそれほど関心がなかったので、これが遺作であるとか、作曲依頼に関する謎めいたエピソードはかけらも知らなかったのですが、知ってなんとなく腑に落ちました。
人間は、死を直前にすると正直になります。それまでは「ありがとう」の一言も言わなかった人が急に感謝の言葉を口にしたり、斜に構えていた人が素直になったり…。モーツァルトもきっと、この曲を書いているときは「天才」ではなく、ただ一人の人間だったから、魂をさらけ出すような楽曲になったのではないかと感じたのです。まぁ、妄想なんですけどね。
弟子の補作によって完成した曲だから印象が違うのでは? といわれるとそんな気もしますが、「涙の日」同様弟子によって補作された8曲目以降は「今までのモーツァルト」的な印象なので、やはり「涙の日」は特別なのではないかなぁと思います。
さて、この曲を「アヴニール」トレーラーの後半に使用したのは…まぁ、「あの世界」に関してはもうレクイエムしかないという感じだからです。はい。