突然の訪問者

 夜中の三時、決して豪華とはいえない俺の家のドアを、誰かが遠慮気味に叩いた。
やべぇ、編集者かな?
今書いている途中の原稿を催促されたらどうしようか……と考えながら玄関に向かう。
 俺はそこそこ名の知れた小説家だ。作品の平均部数は二万部、一番売れて四万部くらい。
このへんの数字は素人だとよく分からないだろうから付け足しておくと、一万売れれば娯楽小説としては合格ライン、三万売れれば中ヒット、五万でかなりのヒットといえる。
つまり、俺の部数は中の中くらいってことだ。
 現在は月刊誌に二本の連載を書いているのだが……元々筆が遅い上に、若干のスランプ気味。プラス、単発のコラムやエッセイの仕事が飛び込んできて、凄まじいハードスケジュールになっていた。
連載の締め切りが迫っていて、ここ一週間くらい殆ど寝ていない。
昨日なんか、風呂の中で眠ってしまい、危うく溺死するところだった。
玄関に向かって歩いている今も、体はふらつき、目の前には星が飛んでいる。
「すいません、あと少しで――。」
 相手が編集者だと信じきっていた俺は、ドアを開けて会口一番にそういったが……次の瞬間、口をぽかんと開けて固まってしまった。
目の前にいたのは、背が低くて青白い顔をした爺さん……しかも、いまからパーティにでも行くようなビシッとした燕尾服姿で、なぜか一メートルくらいある大型の砂時計をもっていた。
「迎えに来ましたよ。」
 所々かすれるような、低く小さな声で、爺さんは早口に言った。
なんだなんだこの爺さんは? 俺はこんな爺さん知らない。パーティに行くような予定もない。そもそも、こんな時間にどこへ連れて行こうというのだ。俺は締め切り直前だというのに、作品が半分も仕上がっていないせいで超多忙なのだ。
 もしかすると、痴呆老人なのかも知れない。パーティの格好をしているのに、持っているのは馬鹿でかい砂時計一つというのも、この爺さんがボケていると考えればなんとなく納得がいく。
「人違いじゃないッスか?」
 さっさと爺さんを追い払って執筆に戻りたかった。ボケ老人に構っている暇はないのだ、今は――「山上篤志さんでしょう?」
爺さんの言葉に、俺の背筋がサッと冷たくなる。
なんだこの爺さんは? なぜ俺の名前を……ペンネームじゃなくて本名を知っているのだ。
俺は小説の『著者近影』にも写真は公開していないし、本名も生年月日も書いていない、加えて、ペンネームは男とも女とも取れる名前だ。
だから、普通に俺の作品を読んでいるだけでは、俺の名前どころか住んでいる都道府県すら分かるはずがないのだ。
「まだ時間があるので、上がらせてもらいます。」
 爺さんは呟くように言うと、俺が拒否する隙もなくさっさと部屋に上がりこみ、居間のテーブルの側に、姿勢正しく座ってしまった。あの馬鹿でかい砂時計は、爺さんの横にでん! と置いてある。
頭のおかしなファンだろうか?
しかし、どうして俺の名前や住んでいる場所が分かったんだろう?
そもそも、俺のような中途半端な作家に、大作家のような熱狂的ファンがいるとも思えない。
 俺は首をひねりながら爺さんに近づいて行く。
「爺さん。」
「……。」
「爺さん! あんた誰だよ?」
「……。」
爺さんの耳元で俺は何度も呼びかけるが、爺さんはまるで岩のように押し黙って座っている。
砂時計のほうは、ただの大きな砂時計というだけで、それ以外は到って普通の砂時計だ。濃いピンクの砂が、サラサラという音を立てて落ちている。
 肩を叩いても、体を揺さぶっても爺さんは動かなかったし、声一つ上げなかった。
別段何かするわけでもなく、何かを盗みに来た様にも思えないし、とにかく今の俺は一分一秒でも無駄にしたくない心境だったので、気持ちは悪いが放って置くことにした。
あと数時間すれば本物の編集者が来るだろうから、その時に爺さんを追い出してもらおう。もし、その時に原稿が進んでいなければ……悪いが、爺さんのせいにしてやるか。
俺は爺さんに背を向け、パソコンに向かって執筆に戻った。



「うおー! 終わったぁぁ!」
 カーテンの隙間から朝の光が忍び込む頃、俺は時間との戦いに勝利し、大きな伸びをしながら歓声を上げた。
そして、爺さんのことをはっと思い出し、居間の方へ振り返る。
爺さんは、そこに座ったときからピクリともしていなかった。まるで石像だ。
動いていたのは、時計の中の砂だけだった。ピンクの砂はサラサラという音を立てながら重力に任せて落ち続け、残りの砂は僅かになっていた。
「爺さん、まだいたのか。もう少しで編集者が来る。追い出される前に帰りな。」
「……。」
「まぁ、いいや。爺さん、コーヒー飲むか? どこの誰だかしらねぇけど、俺は今気分がいいから淹れてやるよ。」
 気分がいいのは嘘ではなかったが、それ以上に限界に近い睡魔が襲ってきていた。
編集者が来るまで起きていなければならない、今眠ると確実に起きられなくなり、仕上げたにもかかわらず原稿を落としてしまいそうだ。
だから、起きているためにも濃いコーヒーと、話しかける相手が欲しかったのだ。
 コーヒー豆の入った缶を開けると、なんともいえない香りが鼻腔をくすぐる
。 ヤカンを火にかけ、湯を沸かしている間に豆を挽く。モカ特有のどことなく甘い香りが一層強くなる。
一刻を争う修羅場では、こんな風にコーヒーを楽しむ余裕などなく、美味くもないインスタントを飲んでいた。
久々に飲む『本物のコーヒー』に、俺は胸が弾んだ。
 ネルを使って二杯分のコーヒーを淹れ、居間に運ぶ。爺さんは相変わらずジッと座っていた。
「ほら、飲めよ。こいつはなぁ、そんじょそこらの豆じゃないんだぜ。高くていいやつなんだ。だから、原稿が仕上がったお祝いの時しか飲まないんだ。」
爺さんはコーヒーの匂いも全くしないかのように、鼻をひくつかせもしなければカップを一瞥すらしなかった。
「なぁ爺さん、俺の家なんてどうやって調べたんだ?」
「……。」
「迎えに来たって言ってたけど、それってその格好と関係あるの? ていうか、燕尾服って始めて見たよ。」
「……。」
「爺さんいくつ? 俺のじいちゃんよりは若そうだけど。」
「……。」
 色々話しかけても、爺さんはやっぱり無言だった。
そんなことは関係なく、俺は喋り続けた。頭の中に霞がかかったような感じがするくらい眠気が酷く、とにかく喋っていないと眠ってしまいそうだったからだ。
 気がつくと、俺のカップは空っぽになっていた。爺さんのほうは一滴も減っていなかったが。
「もう一杯入れてこよう。次は安い豆でな。」
俺は独り言を言って立ち上がり、キッチンの方へ向かう――一瞬、眩暈がして体がぐらつき、爺さんの砂時計にぶつかった。
「悪りぃ!」
危うく倒れそうになった砂時計を慌てて受け止めて立て直す。砂が残り僅かになっていた。
「おい爺さん。砂が終わっちまうぞ。」
 俺はテーブルの上にカップを置き、砂時計を抱え上げてひっくり返した。
背の低い爺さんが持っていたからそれほど重くないと思っていたのに、砂時計は意外に重かった。
爺さんがバカ力なのか、俺がフラフラだからなのか――。
「返したな。」
 爺さんの声がした。
驚いて顔を上げると、爺さんはフクロウのように首だけをこちらに向け、カッと目を見開いている。
まるで猛禽類のようなその目つきに、俺は思わず身震いをし、砂時計から手を離すとキッチンのほうに後ずさりした。
 爺さんは目を見開いたまま立ち上がる――殺される! 俺は身の危険を感じた。
普段ならこんな爺さんに負ける気などしない、けれど、今は数日に及ぶ徹夜明けで、目を閉じた瞬間に眠ってしまいそうなほどフラフラだった。
年寄りとはいえ相手も男だ。今はかなり部が悪い。
 俺は半ば恐慌状態で身を守るものを探した。包丁? いや、刃物はまずい。うっかり奪われでもしたら確実に殺される。じゃあ、何を……。
俺の目に入ったのは、コーヒーを淹れるのに使ったヤカンだった。
俺はコーヒーを入れるときは大目に湯を沸かすからまだ中身は残っている。
時間もたっているから少し冷めてはいるが、火傷する程度には熱いはずだ。爺さんを怯ませるくらいにはなるだろう。
 俺はヤカンを手に取り、爺さんに向かって身構える。武器がヤカンとは、なんともマヌケな話だが。
爺さんは猛禽類のような目で俺をじっと見つめていた。数十分なのかほんの数秒なのか分からないが、俺にとっては永遠と思えるくらい長い間、俺を見つめている。
そして、爺さんはやおら砂時計を抱え上げると、来たときと同じように、音もなく歩いてどこかに行ってしまった。
 ドアが開閉したような音はしなかったが、爺さんの気配は消えていた。
俺は確認する勇気もなく、気が抜けたように座りこんだ。うっかり滑り落としたヤカンが、大音量を上げながら生ぬるい水をぶちまけた。



「――先生。山上先生!」
 水の中で聞くようなウワンウワンと響く声が、俺の事を呼んでいた。
ハッと目が覚めると、俺は見知らぬところにいた。
「先生! 気がつきましたか……よかった……。」
編集者が俺の顔を覗き込んで言う――俺は何が起こっているのかわからず、目だけを動かして周囲をうかがう。
そこは病院だった。
「なに……?」
「こっちが聞きたいですよ。原稿を取りに行ったら先生はキッチンで気絶してるし、床は水浸しだし……。」
「鍵は……?」
「先生、僕合鍵預かってるでしょ。それで入ったんです。急性心不全だそうですよ。もう少し発見が遅ければヤバかったそうです。」
「……あの爺さんは……。」
「お爺さん? 先生のほかは誰もいませんでしたよ。鍵もちゃんとかかってましたし。しばらく入院だそうです。死なずに済んだんですから、僕に感謝してくださいよぉ。じゃ、また近いうちに来ますんで。」
 編集者はそういってニコニコ笑う。手にはちゃっかりと仕上がった原稿データの入ったCD−Rを持っていた。
目だけで編集者を見送ると、俺は真っ白な天井を見上げた。

 そういや、死神は砂時計を持っていて、そいつが人間の寿命を現してるなんて話もあったなぁ。
あの爺さんが……はは、まさか……ね。


「終」