いれずみ

『どうしてもお前に手伝って欲しいんだよ。俺の店、任せられるのはお前しかいないんだ。』
「栄治……俺はお前が思ってるようなやつじゃない。俺は中途半端な、ただのチンピラだよ。お前の夢の片棒を担げるようなタマじゃないんだ。」
そういって俺は、一方的に電話を切った。
栄治――俺の過去を知る唯一の友人は、週に一度のペースで電話をかけてくる。
あいつと俺は、ガキの頃からの友人。いわゆる親友と言っても過言じゃない仲だった。中学、高校でも同じ部活で、こいつとはいつまでも一緒にいるんだと思っていた。そう、幸枝が死ぬまで。
 幸枝――俺がガキなりに愛した、最初で最後の女。
幸枝と出会ったのは高校二年の夏。栄治が付き合ってた女の友達、大きな二重まぶたの目が印象的な女だった。
 それまで女に興味も無かった俺だが、幸枝に出会った瞬間、俺は恋に落ちた。理由は分からないが、俺は幸枝に夢中になったんだ。
幸枝も俺と同じで、出会った瞬間になにか「運命」めいたものを感じたらしい。運命――そんな滑稽な言葉がしっくり来るほど、俺たちはお互いに夢中だった。
 けれど、そんな運命から始まった俺たちの歴史は、たった半年で終わってしまった。
幸枝は死んでしまったのだ。あっけなく、交通事故で。
残された者は半狂乱だ、俺はもちろん、幸枝の両親もそうだ。
特に幸枝のオヤジさんは気が狂ったようになった。気が狂ったように、俺を責めた。幸枝は、俺へのクリスマスプレゼントを買いに行った帰り、事故に遭ったからだ。
 自己嫌悪と他人からの責めに耐えられるほど、俺の精神は強くない。俺は高校を辞め、逃げるように上京した。何の宛ても無い。
高校中退ではろくな職にもありつけず、目に見えて俺は転落。
酒とギャンブルにおぼれ、両腕に墨を入れた。
真人間になるほどの気力もなけりゃ、一般世間に別れを告げてヤクザになる勇気もない。死ぬ気にもならず、ただ時間を消費するだけ。
何人もの女を抱いたが、特別な感情は沸かなかった。強引に交際を迫られたこともあったが、時間が経つにつれ、俺が幸枝の影に縛られていることが分かると、女の方から離れていった。
いつどこで野垂れ死んでもおかしくないし、もしそうなっても誰も哀しんでくれないクズ人間。空気のようなチンピラ。それが今の俺だ。

「こんばんは。」
 暗い物陰から、女の声がした。
背の低い丸顔の女が、パッチリとした目を細めて微笑んでいる――俺はこの女を知っていた……そうだ、この界隈で時々見かける売春婦だ。
化粧が薄く、きちんとしたスーツを着こなしている女……売春婦にしては珍しいタイプだ。
もっとも、出会い系サイトやテレクラを売春の手段に使う女にはこういうタイプもいる、しかし、いわゆる「立ちんぼ」をするタイプは、総じて化粧が濃く、だらしの無い服装をしている。
「お兄さん、よく見かけるよね。仕事、このあたり?」
 女はそういうと、少しぎこちない仕草で俺の腕を取る。きつ過ぎない程度の香水が、俺の鼻をくすぐった。
この女の変わっているところは、外見だけではない。この女は、一日につき一人の客しか取らない。
金に困っているわけでもなければ、いわゆる色情狂でもない、奇妙な女。
「金は無いぞ」
 本当だった。
栄治から電話がかかる前、俺はスロットで十万スッたのだ。
これから行きつけの雀荘で、適度に金を持っていそうなやつから毟り取ろうかと考えていたところだ。
「いらないわ。だから、ね?」
 ますます変な話だ。俺は珍しく、興味をそそられた。
どうせ盗まれるようなものもなければ、失って惜しい命でもない。この妙な提案に乗ってみよう。

 女をベッドに横たえ、シャツを脱ぐ――俺の刺青を見て、女はどんな反応を示すだろう。
大抵の女は怯える。俺の刺青はその辺のガキや不良外国人がやってる「タトゥー」なんてもんじゃない。れっきとした和彫り。色は三色で片方が鯉、片方が龍だ。
しかし、女はまったく表情を変えなかった。一言「へー、こういうの、初めて見た」と言っただけだった。
 白い肌はひんやりと冷たく、腰はなだらかにくびれ、抱きしめると適度に柔らかい。なにより、女は汗をかかなかった。といっても、表面が乾いているわけではなく、しっとりと手に吸い付くような感覚が気に入った。俺は、汗かきの女が嫌いだ。
 女のセックスは不思議だった。
特別技巧的でも、淡白でもない……つまり、サービスをするわけでもなければマグロでもない、ただ自然に求め、受け入れる。そう、受け入れるという言葉がぴったりだと思った。
 俺が果てると同時に、女も果てた。
言い様の無い感情と、心地よい疲労の波の上に浮かびながら、俺は女を腕に抱いたまま天井を見上げる。
女は俺の刺青を愛撫するように、指先でなぞっていた。
「煙草、吸っていいか?」
 女はこくりと頷く。
俺は上半身を起こし、煙草に火をつけると、煙を大きく吸い込んだ。
「あんた、変な女だな。」
 細くたなびく紫煙が、ゆっくりと天井まで伸びるのを眺めながら、俺は言った。
その言葉に気を悪くしたようすも見せず、女は小さく肩をすくめた――「そう?」
「普通の女は、これを見ると怖がるからな。」
「別に怖くないわ。だってあなた、ヤクザじゃないでしょ? 綺麗じゃない。」
 俺は動揺した。
俺はこの女に自分の素性どころか、名前すら教えた覚えは無い。この刺青を見て怯えた女たちもそうだ。だから、彼女たちは俺の事をヤクザだと勘違いした。
けれど、この女は勘違いしなかった。それどころか、さらりと「綺麗」と言ってのけた。何者なんだろう、この女は。
「ねぇ、もっとじっくり見てもいい?」
 年端もいかない少女のように小首をかしげる女――俺は、ほんの少し口元が緩んだ。 吐息が感じられるほど顔を近づけ、女は俺の刺青をしげしげと観察する。子犬を初めて見る子供のように。
「痛かった?」
「少しだけ。」
「なぜ刺青をしたの?」
 なぜ――?
またしても俺は動揺した。なぜ? なぜ俺は刺青を入れた? 虚勢を張るため? 違う、そうじゃない――。
「色々あっただけさ。」
「ふーん。」
 曖昧な答えに、女は興味なさそうな声で、そう応えただけだった――自分で聞いておきながら興味のなさそうな返答をする。ますます不可解な女だと思ったが、今は追及されないことが嬉しかった。
なぜなのか、俺にもわからなかったからだ。
「そういうあんたこそ、なぜこんなことしてるんだ? 別に、金に困っているようにも見えないし……。」
 女は上半身を起こすと、膝を抱えて座る。体重を俺に預け、頭は俺の肩の上だ。
しばしの沈黙が、俺と女の間に流れる――女は、言葉を探しているようだった。
その視線は思慮深く、聡明で、ほんの少し沈痛な陰を帯びているが、陰惨な感じがしない。不思議な目だった。
「禊……かな。」
「ミソギ?」
 馴染みの無い言葉。ミソギ……。おぼろげな知識では、それは宗教的な意味を持った言葉だったはずだ。
「禊……というと、冬のクソ寒い朝に、裸で水を被るようなアレか?」
「うん。それも一つの禊ね。由来は、イザナギのミコトが黄泉の国から帰ったとき、死の穢れを川で禊いで、祓い清めたこと。」
子供の頃、幼稚園で聞いたことのある話だ。
確か、男と女、二人の神が国を作るのだけれど、火の神を産んだとき、女のほうが死んでしまう。
男はヨミの国、要は死者の国へ行って女を迎えに行くが、女は生きていた頃の面影もない鬼のようになっていて、男は命からがら逃げるという話だ。
しかし、俺にはこの話と売春が繋がらなかった。
「意味がわからないな。」
「禊というのはね。一度死んで、産まれ変わること。沖縄のユタは、神通力を身につける前に、何日も死の淵を彷徨ったり、身内の死を立て続けに経験したりするの。死の穢れと苦しみを経験して、それを乗り越えて初めて、新しい自分になれるの。」
 俺は怪しみながら女の様子を伺う――なにかに狂信的になっている人間は、陶酔に浸りながら自分の論理を展開している時、妙に瞳孔が開いてギラギラした、猛禽類のような目になる。
けれど、女の目は深い思索の海を漂っているような、ほんの少し伏目がちで、自分の中を探っているような感じだった。
 宗教に興味はないと、突っぱねるのは簡単だ。しかし、女は宗教の話をしたいわけではなく、自分の言いたい事を表現できる言葉が、たまたま宗教的だっただけだろう。
普段ならきっと、無理やり会話を中断していただろう。
けれど、この日は、この女の話を聞いてみたかった。
「セックスってね、女性にとっては死の疑似体験なのよ。オルガズムに到達する瞬間、本当に一瞬だけど、死ぬのよ。喘ぎ呼吸に始まり、全身の痙攣、呼吸停止、意識の喪失。もしかすると、一瞬だけ心臓が止まってるかもしれない。」
「ふーん。でも、なぜ売春なんだ? あんたなら、恋人に不自由しないだろ?」
 そう、ただセックスするだけなら、なにも売春などする必要はない。
なんのために、わざわざリスキーな行為をするのだろう。俺にはさっぱりわからなかった。女の言っていることが何一つ。
「許せないから。」
「……許せない?」
「私ね、父親に犯されて育ったの。」
 心の動揺が手に伝わり、煙草の灰をベッドの上に落とした。
慌てて手で払う――熱い。俺は少し火傷した。
「初めて生理が終わってすぐ。ずっとね。中学を出てからは高校も行かなかった。十七の時に妊娠。でも、流産しちゃった。それで私は、子供を産めない体になって……父さんから逃げてきたの。」
 女は、まるで昨日食べたものを言うように、何の感情も無い声で言った。
男の俺には想像できない、女の持つ苦しみ、痛みが、まるで「なんでもないこと」のように語られることに、俺は寒気にも似た恐怖を感じた。
「東京に来て生まれて初めて、好きな人が出来た。なのに、その人に初めて抱かれたとき、私は父さんに抱かれていることを思い出していたのよ。そして、私は父さんの腕の中でいってしまった。私は、私を許せなかった。」
 女の手が、俺の刺青をそっと撫でる。
冷たい指先は、妙に熱を帯びているように感じられ、触れられた部分が暖かく感じる。
「私は、自分を物として扱うことで、物として死ぬことで、自分を罰し続けたのよ。けれど、いつも父さんが現れる。私は、父さんが消えるまで、自分を罰し続けなければならなかった。お金を貰うとね、それが例え千円でも、物として扱われた気になれる。だから売春だった。それだけ。」

 俺は女の手を握って、駅までの道を歩きながら、さっきの女の話と、自分が刺青を入れた理由を考えていた。
そう、俺はただ、変わりたかったんだ。幸枝を忘れることじゃなく、幸枝の死を受け入れる強い人間に。自分の過去を乗り越えられる人間に。
俺が女の手を強く握ると、女も手を握り返した。
「あんたは強いな」
 俺が呟くと、女は足を止めて俺を見上げる。
背が低くて、丸顔で、二重まぶたの女――。
「あなただって、そうよ。」
女は、ゆっくり手を離すと、服の上から俺の刺青をなぞる。
「あなたの禊は終わっているもの。あとは、滝を登る勇気だけ……。私ね、あなたに抱かれた時、父さんのこと、思い出さなかった。おかげで勇気が出たよ。ありがとう。」
 女は、俺の顔をみてニッコリ微笑む――女の言葉に、俺は愕然とした。
俺も、この女といる間、幸枝のことを思い出さなかったからだ。
不意に、柔らかい唇が俺の口を塞ぐ。優しいキス。
「最後の人があなたでよかった。さようなら。」
 ゆっくりと唇を離した女は、そう囁くと、かすかな甘い香りを残して人ごみの中に消えていった。
俺は追いかけようともせず、その場に立ち尽くしていた。
もう二度と会えないだろうという予感と、微かな胸の痛み――。
俺はケータイを取り出した。
「栄治、さっきの話、もう一度してくれないかな……。」

今日から、生まれ変わろう。

「終」