みんなで卒業しませんか?

ミチル>みんなで卒業しませんか?

 あるホームページの中にあるチャットルームで、ミチルさんの書き込みを見た僕は、その後の取り決めどおり、二の腕に赤いバンダナを巻いて新宿駅にいた。
空はすっきりと晴れ、ほんのりと夏の気配を孕んだ熱気が、僕の腕をじりじりと焦がす。
五月――命が芽吹き、山は新緑に染まる季節に、僕たちは卒業する。
 今日、一緒に卒業するのは僕……ハンドルネーム「宵待ち」と、発起人の「ミチル」さん、チャットルーム常連の「ソーダ」さんの三人。
どうせ卒業するなら、その前に卒業旅行を楽しもうじゃないか、というソーダさんの提案で、新宿駅に集合ということになっていた。
 そろそろ時間だ――僕は腕時計に目を落としてから、人ごみの中を見回す。
いた。黒いシャネルの看板の横に、赤いバンダナを腕に巻きつけたお爺さん……きっと、ソーダさんに違いない。
「……あの、ソーダさん……ですか?」
 僕がそっと話しかけると、彼は驚いたように振り向いた。
仕立てのよいスーツに、白い口ひげ、少し薄いけれど立派な白髪頭、上品で優しい雰囲気の老人は、照れたような表情を浮かべて頷いた。
「ええ、そうです……宵待ちさんですかな? お声をかけていただけてよかった、何分、こういう集まりは初めてでして……。」
 彼は胸ポケットからハンカチを取り出すと、額の汗を拭った。
「僕もですよ、緊張して三十分も前に来てしまいました。えっと……ミチルさんはまだ?」
「私たちを探しておられるのかも知れませんね、今日は人が多……。」
 ソーダさんの言葉が詰まった。
僕たちの目の前に、十歳くらいの女の子が立っていて、じっとこちらを見つめていたのだ。
腕には僕たちと同じ、赤いバンダナ――まさか、こんな小さな女の子が?
 彼女は、その幼い顔中に、ありったけの笑顔を浮かべると、僕とソーダさんを指差していった。
「宵待ち! ソーダ! みーつけたっ!」



 新宿から「あずさ」に乗って山梨県へ向かう。
映画の早回しのようにどんどん変わっていく風景に、ミチルは目を輝かせていた。
「ソーダさん。」
「はい。」
「彼女……卒業するには、ちょっと幼すぎるのでは……?」
「私もそれを考えていました。しかし、どうしたものか……。」
 ミチルに聞こえないように、小さな声でソーダさんと話し合う。彼女は幼すぎる、少なくとも、僕やソーダさんにはそう感じられた。
今すぐ卒業なんて考えなくても、いくらでも時間がある……と思う。
「ソーダっ! みてみて、アレ!」
 ミチルが大きな声で呼ぶと、ソーダさんは驚いて座席から数センチ飛び上がった。
いそいそとミチルのそばに駆け寄り、同じ窓から外を眺める姿は、まるで仲のいいお爺ちゃんと孫のようだ。
 僕も窓の外に目をやった――色とりどりの鯉のぼりが、青い空を悠々と泳いでいる。
そういえば、僕の田舎でもこの時期になると、あたり一面を覆いつくすくらいの鯉のぼりが飾られていたな。
川岸から川岸まで、めざしのように並んだ鯉のぼり……風が吹くたびに飛び跳ねて、妹が喜んでいたっけ。
「ソーダさんは、なぜ卒業しようと思ったんですか?」
 不意に、僕の口から言葉が飛び出した。
ソーダさんとミチルが、揃ってこちらを向く。僕は、ただなんとなく口にしてしまった言葉が急に嫌らしい物の様に感じ、両手で口を塞いだ。
「すみません、詮索するつもりじゃ……。」
「孫と妻を、死なせてしまったんですよ。」
 ずしりと、ソーダさんの言葉が胸をついた。
人を死なせてしまった。それも、自分の妻と、血の繋がった孫を……。
「息子が三十を超えてからの結婚しましてね。まぁ、歳が歳だから、孫は諦めていたんですがね……授かったんですよ。私たちも口では諦めたといっていましたけれど、やっぱり嬉しくてね。妻も私も、そりゃもう可愛がったもんですよ。」
 悲しげに目を細めるソーダさんの横顔を、ミチルはじっと見詰めている。
僕は、どこに視線をやっていいのか分からず、自分のつま先をじっと見つめていた。
「孫が三歳のときです。息子夫婦が仕事で長く家を開けることになりましてね、私の家で預かることになったんですよ。その時分は、私もまだ現役でしてね。妻から孫のお弁当の材料を買って帰るよう頼まれていたのに、すっかり忘れていたんです。二人は、私が帰らないので買い物に出かけましてね……その途中で、トラックにはねられたんですよ。」
 ソーダさんがポツリポツリと話す……僕は、今更ながら、自分の言ったことが恨めしく思えた。
思い出すことも辛いだろう事を、僕は聞いてしまったんだ。
「孫は即死でした。妻は打ち所が良かったんでしょうなぁ、骨折だけで済みました。が、自分を責め続けて、心を病んでしまいましてな。毒を飲んで死んでしまいました。」
 力のない笑顔を浮かべ、ソーダさんは言った。
全部、私が悪いんです。と――。
ミチルは小さな手でソーダさんの手を握ると、窓の外を指差し「鯉のぼりだ」と言った。



 駅から出ると、夏に向かって勢力を伸ばし始めた紫外線が、容赦なく肌を焼く。
あたりは背の高い木々が立ち並び、くっきりとした影を地に落としている。
「ふ……あー。」
 僕は伸びをすると、大きく息を吸い込んだ。――緑の香りが、鼻腔をくすぐった。
ミチルは始めてきた場所に両目を輝かせ、ソーダさんは懐かしむように目を細めていた。
「ソーダさんはここに来たことがあるんですか?」
ソーダさんはゆっくり頷く。
「ええ、四十年ほど前になりますが。」
そして彼は、ミチルの手を握ると、緩やかな山道を登り始めた。

 道は右へ左へ曲がり、木々は少しずつ深みを増していく。
坂は急勾配とまでは行かないものの、体の小さなミチルには少し厳しいらしく、はあはあと息を切らしていた。
 途中、朽ちかけたような木のベンチがあったので、ソーダさんはミチルをそこに座らせた。
「少し休憩しましょう。ちょっとキジ打ちに行ってきます、宵待ちさん、ご一緒にいかがですか?」
ミチルは顔を上げると、肩で息をしながらソーダさんに問いかける。――「キジ打ち?」
「レディの前で言うのは憚られますなぁ。その、つまり……トイレのことですよ。」
「なーんだ、おしっこかー。」
「これ、女の子がはしたないですよ。さ、宵待ちさん。行きましょうか。」
けらけらと笑うミチルを笑いながらたしなめると、ソーダさんは僕に目配せをした。
なにか話があるみたいだ。
 僕は彼の後について獣道を進む、しばらく行くと地面が少し窪んでいる場所があった。
ミチルの姿は背の低い木の陰になっていて見えない。
ソーダさんは、くぼみ足を投げ出す形で地面に座ると、隣を軽く叩いて、僕に座るよう促した。
「私ね、やはりミチルさんは置いていくべきだと思うんです。」
 僕が座るのとほぼ同時に、ソーダさんは言った。僕が予想していた通りの台詞。
僕は黙って頷くと、手元に落ちていた石を拾って、足元に広がる原生林に向かって投げた。
「あの場所にいれば、誰かが通って彼女を見つけてくれます。私たちはこのまま、ここで卒業してしまいましょう。」
 僕が頷くと、彼はゆっくり立ち上がり、カバンの中からロープを二本取り出した。
僕も立ち上がり、胸ポケットから薄い封筒を取り出す――田舎に住んでいるたった一人の身内、僕の可愛い妹にあてた手紙だ。
ソーダさんが悠々とした手つきで木の枝にロープを結びつける、その姿に、僕は微かな胸の痛みを覚えた。
妹は一人ぼっちになってしまわないか?
最後に、電話で話したのはいつだった?
 二本のロープが、一端を輪の形にしてぶら下っていた。
「宵待ちさん、始めましょう。」
湧き上がってきた後悔を胸に押し込んで、僕はロープに首を通す。
ソーダさんも、足元に白い封筒を置くと、ロープに首を通した。
「いっせーのーでで、この窪みに飛び降りるんですよ。」
僕はゴクリと唾を飲みこんで頷く。
「行きますよ。いっせーのーでっ!」
 両足が地面を蹴った。
首に圧力がかかり、目の前が真っ赤に染まる。
そして……。
ミシミシ! バキッ!
「うわぁぁぁっ!」
 ロープを結び付けていた枝が、二人分の重量に耐え切れずに折れる。
僕とソーダさんはお尻から地面に墜落し、おまけに、折れた木の枝に頭をぶたれた。
「ソーダっ! 宵待ちっ!」
 騒ぎを聞きつけたミチルが、がさがさという音を立てながら獣道を掻き分け、僕たちの元へ走りよってきた。
首のロープを外し、窪みから這い上がった僕たちを見下ろす彼女の目には、大粒の涙が今にも零れ落ちんばかりに溜まっている。
「酷いよ。三人で卒業するって決めたじゃない。なんであたしだけ置いていくのよ!」

 あたしの両親は共働き、兄弟はいない。
毎朝学校に行くときも一人、帰ってからも一人、家ではテレビをみたり、マンガを読んだり、インターネットをしてる。
お母さんはいつも、晩の九時ごろに帰ってくる。そして、あたしの顔を見て言うのは「勉強しなさい」だけ。
お父さんは日曜の朝、時々見かけるけど、もうずっと話なんかしてない。 学校に友だちはいない。毎日が一人、朝からずっと一人ぼっち、一年中ずっと……。
こんな毎日、本当にうんざり。お父さんもお母さんも、学校のみんなも、あたしなんていなくても平気なんだ。
 インターネットの中では寂しくないけど、なぜかみんな、あたしの歳を聞くと離れて行っちゃう。なんで? あたしが子供だから?
宵待ちとソーダは、駅で会ったときに逃げ出したりしなかった。嬉しかった。
卒業するの、一人だと怖いけど、三人一緒なら平気だって思ったのに……。

 ミチルは泣きながらポツリポツリと、自分の気持ちを話した。
僕は何も言えずただ項垂れて、ソーダさんはミチルを抱きしめながら「ごめんよ、ごめんよ。」と何度も呟いていた。
こんなに小さい体に、大人と同じくらい――いや、もしかすると、選択肢の多い大人以上に、重く苦しい苦悩と絶望を抱いているのかもしれない。 僕たちは、ただ僕たちの勝手な都合。ミチルの言う「大人の都合」で、彼女だけをのけ者にしようとした。
それが、彼女にとってどれだけ惨いことかも考えずに……。
 なれない山道と泣き疲れたせいか、ミチルは一通り感情を爆発させた後、ぐっすりと眠り込んでしまった。
日も傾きかけてきたことだし、僕たちは先を急ぐことにした――僕たちは卒業するためにここに来たのであって、遭難するために来たのではない。 ミチルを背負って、ソーダさんの後について歩く。妹を背負って歩いた、田んぼのあぜ道を思い出した。
「宵待ちさん、重くないですか?」
「平気ですよ。僕、バイトで引越しやってたんで、力はあるんですよ。」
むしろ、ミチルの体重が背中に心地よく感じるくらいだ。
「宵待ちさんは、なぜ卒業を?」
「よくある話ですよ。一旗あげようと田舎から上京したのはいいものの、仕事は見つからずあっさり挫折。派遣のバイトで食いつなぐだけの毎日に嫌気が刺しちゃったんですよ。」
「そうですか……。」
 しばし無言で歩くと、急に山道が開ける。
古い日本家屋が一軒、木製の看板を掲げていた。――「民宿 志津元」
「いやいや、新婚旅行できたときはもっと近くだと思ったのですが……あの頃は若かったからでしょうなぁ。ここが今日の宿です。ミチルさん、つきましたよ。」
 ミチルが目を覚ました気配がしたので、僕は彼女を地面にそっと下ろす。
大きな伸びをして目を擦ると、目の前の民宿をみて微笑んだ。
「すごーい! こんなトコ、始めて来た! 宵待ち! ソーダ! 早く行こっ!」
 よかった、もう怒っていない……と、安心する暇もなく、僕とソーダさんはミチルに引っ張られていった。



 僕たちは三人一緒に風呂に入った。
父親と一緒に入浴した経験のないミチルは、最初とても恥ずかしがっていたけれど、一旦入ってしまうと恥ずかしさも消え、大はしゃぎだった。
 料理は川魚や山菜といった山の幸で、僕にとっては懐かしい感じの料理だった。
普段、コンビニのお弁当や、惣菜のコロッケを食べているミチルには、なんでもかんでも物珍しく感じるようで、箸で山菜をつまみ上げては「これなぁに?」を連発していた。
 ソーダさんは物知りで、ミチルの質問全てに丁寧に答えていた。
「キジ打ち」なんて言葉を使うあたり、若いときは山男だったりするのかもしれない。
僕も、ミチルも、ソーダさんも、誰かと一緒に食べる夕食が本当に久しぶりで、会話がはずむ楽しい食事となった。
最後の晩餐は、楽しいに越したことはない。

 民宿女将さんが三組の布団を並べ終え、そそくさと出て行くと、僕たちはお互いの顔を見合わせた。
そろそろ、本当の卒業式だ。
「妻が飲んだ毒の余りです。警察が来たとき、こっそり隠しておきました。」
 ソーダさんがカバンの底から小さなビンを取り出した。
ラベルのはげかけたビンを、僕とミチルは凝視する――NaCNと書いてあった。
「民宿の方に、迷惑をかけちゃいますね……。」
「仕方ありません。お詫びとしては少ないかもしれませんが、五十万ほど払っておくように……と、遺書に書いておきました。」
「苦しくないの?」
「苦しまずにコロリだそうですよ。」
 ミチルが僕の浴衣をぎゅっと掴む。僕は手のひらが汗ばんできた。
ソーダさんは、僕たちをじっと見つめる。――「やめるなら、今ですよ。」
僕とミチルは静かに首を振った。一人ならきっと、ここで止めてしまっただろう。けれど、今日は一人じゃない。三人いれば、一人では出来ないことも出来るはずだ。例えそれが自殺でも……。
 ソーダさんは、一つ大きな呼吸をしてからビンの蓋をゆっくり開ける。 湿気を含んだ白い粉が、ビンの中に見えた。
女将さんが置いていった湯飲み茶碗に、ソーダさんは白い塊をころころと入れると、それを水で溶かしていく。シュワシュワという小さな音が聞こえた。
「0.2グラムで致死量だそうですから、これだけ飲めば確実に死ねるでしょう。」
 毒入りの水が三つ、僕たちの前に作られた。
ソーダさんは、ほんの少し震える手で湯飲み茶碗を掴む。
ミチルと僕も、意を決して手に取った。
ソーダさんが湯飲み茶碗を目の高さに掲げたので、僕たちもそれに倣う。彼は一つ深呼吸をして言った。
「卒業、おめでとう!」
「おめでとう!」
「おめでとう!」
 ソーダさんは、湯飲み茶碗をシャンパンの入ったグラスのように高々と差し上げ、ぐいっと一気に飲み干した。
僕とミチルも、ほぼ同時に飲み干す……。
「……。」
「……。」
「……。」
「……何も起きませんね。」
「……効くのに時間がかかるのかもしれませんな。」
 僕たちはお互いに無言のまま、時計の音を聞いていた。誰一人、苦しむような気配どころか、死にそうな気配すらない。
ミチルが大きなあくびをした。
ふと時計を見ると、時間はすでに午後十一時を回っている。
「寝ますか。」
「そうですな。寝ている間に毒が効くんでしょう。寝ている間に死ぬというのも悪くありませんな。」
僕たち三人は、寝ている間に毒が効くことを期待しながら、布団に潜り込んだ。



コンコン……コンコン……。
 ドアをノックする音で僕は目覚めた。
窓の外には光が溢れ、木々がそよぐ音と、鳥の鳴く声が聞こえる。
ノックの音はまだ続いていた。
「……はい。」
「おはようございます。お布団、上げさせていただいてよろしいでしょうか?」
布団……朝……?
死んでないっ!
「あと十分……」
「……ふごっ!」
僕の後ろで、幸せそうな表情を浮かべた二人が呻いた。

 結局、僕らは誰一人死なないまま朝を迎えた。
それぞれ何かを考えながら朝食を済ませ、その微妙な空気を抱えたまま、電車に乗る。
もう誰も、卒業のことを口にしなかった。
 東京に向かう「あずさ」の中で、最初に口を開いたのはソーダさんだった。
「卒業証書を貰い損ねましたなぁ……。」
僕はつま先に向けていた視線を、ソーダさんの顔に向ける――彼は、穏やかに微笑んでいた。
「きっと、単位が足りなかったんですね。」
「やり残した課題があるから、落第したのでしょうね。」
 僕とソーダさんは、お互いに笑った。なんだか不思議な気分だった。色んなことがどうでもいい、そんな気持ち。
気づいたら、僕は泣いていた。笑いながら泣く。そんな器用なことが出来ることを初めて知ったような気がする。そのくらい長く、僕は泣くことを忘れていたんだ。
 その時ミチルが、大きな声で「あっ!」と叫んだ。
彼女の手には白いケータイが握られており、彼女はそれを見て困ったような表情を浮かべている。
「どうしたの?」
 ミチルはケータイの画面を僕に見せて、この世の終わりのような表情を浮かべた。
画面はメールの受信ボックスで、昨夜から今朝にかけて、両親からのメールが何通も入っていた。
「どうしよう……きっと怒ってるよ。」
「中身は読んだ?」
 僕が問いかけると、ミチルはぶんぶんと首を振った――「怖くてまだ見てない。」
僕は彼女の手からケータイを受け取ると、未開封のメールを古い順から見ていく。
確かに、彼女の両親は怒っていた。最初は――けれど、時を経るにつれて、怒りは薄れ、心配と自責、彼女の安否を気遣う内容へと変化して行った。
表面上は怒っているように見えても、文字の隙間から彼女に対する愛情がにじみ出ているメール……両親のいない僕には、ほんの少し羨ましい。
「大丈夫。お父さんもお母さんも、怒ってるんじゃないよ。ものすごく心配してる。きっと、二人は不器用なだけなんだよ。」
「……でも、なんだか帰りにくいなぁ。」
 ミチルはメールを見ながら憂鬱な表情を浮かべる。
その表情は今にも泣き出しそうで、見ているこっちまで泣きたくなるような表情だった。
見るに見かねたソーダさんが、ミチルの両手をぎゅっと握って言った。
「よし、私が何とかしましょう!」
「ほんと?」
 ミチルの表情がぱっと明るくなる。
ソーダさんがミチルを安心させるように大きく頷くと、彼女は彼の首に思い切り抱きついた。
「ありがとう! おじいちゃん!」



 拝啓、宵待ち様
新緑の候、いかがお過ごしでしょうか。
東京は早くも夏を思わせるほど厳しい暑さが続き、老体には少々堪える毎日です。
あの「卒業旅行」から数年たち、ミチルは中学生になりました。
ミチルの両親と一緒に入学式に行きましたが、制服姿も可愛らしく、これから輝かしい青春時代を迎えるのだろうと考えると、嬉しさのあまり涙が滲む想いでした。
 そうそう、嬉しいことといえば、先日、嫁が懐妊したという知らせを受けました。
高齢ということもあり心配はつきませんが、孫が二人になる喜びに、今から胸が高鳴っております。
毎日、朝夕欠かさず妻の遺影に手を合わせ、孫たちを見守ってくれるよう祈願しております。
 宵待ち様も、この度ご結婚とのことで、本当に嬉しい次第です。
どうか、末永くお幸せにお過ごしくださるよう、心よりお祈り申し上げます。
これから日増しに暑くなって行きます、なにとぞお体にはお気をつけください。敬具

追伸、青酸ナトリウムという毒物は、長い間外気に触れていると重曹になってしまうそうです。

「兄ちゃん! 式場見に行くんでしょ? 弘子さん待ってるよ!」
「ああ、今行くよ!」
 妹の呼びかけに応えると、僕はパソコンの電源を切り、急いで階段を降りた。
外に出ると、あの日と同じように、太陽が容赦なく熱を浴びせかけてくる。
青い空、くっきりとした影を落とす木々、大きく息を吸い込んだとき、鼻をくすぐる緑の香り――僕の生まれたところ。
「兄ちゃん、何してるの。早く行かないと道が混んじゃうよ!」
「へいへい。」
 車の後部座席から僕を急かす妹――どうして僕の結婚式場の下見に、お前がついて来るんだ?
助手席のシートで、恋人の弘子がクスクスと笑っている。
僕は運転席に乗り込み、シートベルトをきっちり締めると、車を発進させた。

 ガタガタとした狭い田舎道を走っていると、不意に妹が声を上げた。
「兄ちゃん! 鯉のぼり!」

三匹の鯉が、青空の海を泳いでいる。

    終わり