長い夜のすごし方

 会社から戻るとコンビニで買ってきた夕食を平らげ、温めのシャワーを浴びる。
髪を乾かしたら、ぼんやりと天井のしみを眺めながら、冷凍庫に入れていたボンベイサファイアをストレートで飲む。
一本空ける頃……つまり、ベロベロに酔っ払う頃には大体深夜一時。アルコールの力で何も考えられなくなって、眠気でずぶずぶになったらベッドに潜り込む。
翌朝、頭痛と胸焼けを抱えながら歯を磨いて化粧をして、半分のトーストをコーヒーで流し込む。
 アタシの中でとぐろを巻いている絶望と寂しさに飲み込まれてしまわないように、アタシなりに精一杯考えた暮らし方は、とにかく忙しく飛び回ったり、脳みそをアルコール漬けにして考えることをやめることだった。
けれど、ふとした拍子にアタシは立ち止まってしまったり、頭の中が冴えてしまう。そのたび、足元にぽっかりと穴が開いたような恐怖を感じる。
 今日もそんな日で、アタシはすでに二本目のボンベイを半分ほど空けているというのに、一向に眠気はやってこなかった。
(これ以上はやばいなぁ。)
 そう考えながら、アタシはグラスの中身を飲み干す。
冷たいようでいて喉を焼く液体が、癖のあるハーブの香りと共に喉を滑り落ちた。
体の感覚は水の中のようにふわんふわんしていて、手や足は重いのに眠気は一向に襲ってこない。時計を見ると、すでに三時を過ぎていた。明日は朝から会議があるのに。
 これ以上飲むと急性アルコール中毒で死んじゃうかもしれない……という考えがふと過ぎった。
別にいいじゃない、死んだって。
アタシの中で誰かがいった気がした。
 ボンベイの、悲しくなるほど綺麗なブルーの壜に、アタシの顔が歪んで映っている。 化粧を落としたアタシの顔。目の下はくっきりとしたクマ、肌はガサガサ。まるで四十代のような疲れた顔をしている――まだ三十路前なのに。
アタシの中で表現しようのないイライラが湧き上がってきた。どうしてアタシはこんなに苦しんでいるのだろう? アタシがこんなに苦しいのに、どうしてみんなは平気な顔して眠っていられるんだろう? アタシがこんなに辛くて長い夜を過ごしているのに!
 アタシは持っていたグラスをほんの少しだけ乱暴に。けれど、割れないように細心の注意を払いながらテーブルの上に置く――ベネチアングラスのいいヤツなんだ。酔っていてもそれだけは忘れない。――と、電話の受話器を上げた。
アタシには、こんな時間に愚痴を言ったりする相手はいない。もちろん、この理不尽な怒りを受け止めてくれる人も。
 だから、アタシはでたらめな番号を押した。
プップップ……という音の後、機械的な女の声が聞こえた――「おかけになった番号は」――すぐに電話を切って、もう一度でたらめな番号を押した。
今度はコール音が鳴って、七回目で受話器をとる音が聞こえた。
『……もしもし?』
眠そうな女の声が聞こえた。
『もしもし? 誰?』
アタシが何も言わずに女の声を聞いていると、彼女は不愉快そうな声を出した。
声の感じから言うと、アタシより少し年上くらい。きっと、アタシと同じように働いている人で、ぐっすり眠っていたんだろう。
『バカっ! 死ねっ!』
彼女は荒々しく電話を切った。
 アタシは別におかしくもないのに笑いがこみ上げてきて、気がつくとクスクスと笑いながら新しい番号を押していた。
今度は短いコール音の後に、中年の男が出た。
『もしもし?』
「ふふふふ」
 さっきから引きずっていた笑いが抑えきれず、アタシの声が相手に聞こえてしまった。 まあいいや、このオジサン、ちょっと渋声でアタシ好みだし。無言よりは長く話してくれるかもしれない。
『冴子か?』
違うよ。アタシは冴子じゃない。君枝だよ。
ひそひそ声でアタシのことを違う名前で呼ぶオジサンがおかしくて、アタシの笑いは本格的に抑えきれなくなる。
『冴子、どうしたんだこんな時間に。』
「ふふっ、ふふふふ」
 アタシの笑い声が忍び笑いから高い笑いに変わろうとしたとき、電話の向こうから声が聞こえた。
『あなた? 誰からです?』
冷水を浴びせられたように、アタシの中で何かが急激に冷めていった。
オジサン、結婚してるんだ。冴子……不倫か。くだらない。少しでも好みだなんて思った自分が馬鹿みたい。
『なんでもない、ただの間違い電話だよ。』
そういうとオジサンは、秘密をそっと隠すように電話を切った。
きっと、冴子との関係もこんな風に切るんだろうな。変に優しくて、キザったらしくて、自分だけが傷ついたような顔して。
そんな態度されるとアタシは凄く傷ついてるのに、悪女のように振舞うしかないんだよ。アンタなんてただの遊び、アンタなんていなくても平気よ。傷ついてなんかないわってね。
 アタシの体温が受話器に伝わって、ずっしりとした重みがなんとなく生き物のようだった。
色んな声色を使って、耳元で囁いてくれる生き物。優しくて、残酷。
 アタシの頬を涙が伝った。
なんで泣いてるのか、アタシにはさっぱり分からない。拭うことも出来ないほどの大量の涙。
霞む視界の中、アタシはゆっくりと番号を押す。
今度はでたらめじゃなくて、ずっとずっと前、毎日のようにかけていた番号。アタシが何時にかけても、絶対怒らなかった人の番号。
 長い長いコール音が鳴った。十回、二十回……誰も出ない、そうだよね。だって、あの人はもう――。
『はい。』
受話器を置こうかと思った瞬間、誰かが電話に出た。
心臓が飛び出そうに鳴るくらい驚いたアタシは思わず「あっ。」と声を上げると、慌てて電話を切ろうとした。
『泣いているの?』
問いかけるような、優しい声色だった。
アタシは驚いた。だって、アタシが声を上げたのはほんの一瞬だったし、すぐに受話器を離したから。
 アタシは相手の声を良く聞こうと、受話器に耳を押し当てる。
微かな呼吸音と低いノイズだけが聞こえるだけで、その人は何も言わなかった。
「どうして……?」
涙と緊張でかすれる声を振り絞って、アタシは言った。――「どうして、わかったの?」
 それからしばらく、微かな呼吸音と低いノイズだけが聞こえた。
もしかすると、からかわれただけじゃないだろうか。そんな気がし始めた頃、声が言った。
『なぜかな。なんとなくそう思ったんだ。』
「アタシがどこの誰か、聞かないのね。」
『君が誰とか僕が誰とか、そんなに重要なことなのかな。僕は、今そこにある現実。君が泣いているということだけが、この瞬間で一番重要なことだと思っている。』
 僕。男性なんだろうか。けれど、最近は女性でも僕という言葉を使う。
年齢も性別もわからない不思議な声、静かだけどしっかりとした意思を持った声。
冷静に考えるとすごくおかしな台詞なのかもしれないけれど、アタシがただのアタシとして、自然に感情を出すことを許してくれた。それだけが嬉しかった。
「寂しいの。アタシ、大切な人を失ってしまった。死んだの。その人が死んで、アタシも死んだの。」
 気がつくと、言葉が口から飛び出していた。
なんでだろう。誰にも言わなかったことなのに。あの人が死んで、あの人が死んだ場所を見て、アタシの中の何かが死んで、それからずっと言わなかったのに。
「アタシは一人ぼっちで、生きてるけど死んでる。誰も気づいてくれない。アタシ一人だけが、悲しくて寂しくて……」
感情が津波のように押し寄せて、アタシは涙と言葉を抑えることが出来なかった。
 指先まで冷たくなるような雨の日、あの人は家に帰る途中、トラックにはねられて死んだ。
アタシが、あの人の忘れ物に気づいて追いかけていったときにはもう、全てが終わろうとしていた。
奇妙な形に捻じ曲がった紺色の傘、電信柱にぶつかって前がつぶれたトラック、人ごみ、警察……。何が起こったのかわからなかった。
どうやって家に帰ったか憶えてないけど、気づいたらアタシは、ずぶ濡れのまま玄関にたっていた。出るときに持っていった赤い傘がなかった。あの人から貰ったのに。
 案の定風邪引いちゃって、三日くらい高熱で寝込んだ。寝込んでいるとね、あの人が来てくれたんだ。何度も何度も。アタシの髪を撫でて、何か飲む? とか、タオル替えようか? って聞いてくれるんだ。
アタシは嬉しくてそのまま眠っちゃって、次目が覚めるとあの人はもういなくて……ああ、そうだ、あの人は死んだんだ。あれは全部夢なんだって。
 夢ならいっそ覚めなくていい。睡眠薬たくさん飲んで、お酒も飲んで、もう二度と目が覚めませんようにって祈っても、いつも目が覚めちゃう。頭痛と吐き気が、あの人のいない世界にアタシを連れ戻して、タダでさえ苦しいのに、もっともっと苦しめるの。
そうしてるうちに、睡眠薬もお酒も、あんまり効かなくなってきた。
夜がアタシを押しつぶしそうなくらい、寂しくて、苦しいの。ねえ、どうすれば眠れると思う? どうすれば苦しまなくて済むのかな? ねえ、教えて?
 電話の向こうは沈黙を保っていて、その沈黙が繋がっていることだけを教えてくれる。 声は何て言うんだろう。
「自殺はいけない」「生きなくちゃだめだ」「苦しみに立ち向かえ」そんな言葉だったら、アタシはきっと受話器を置いてしまうだろう。
『君は……』
 永遠と思えるほど長い――もしかすると、ほんの数秒だったのかもしれない時間がたった頃、声が囁くように言った。
『君は、死んでなんかいない』
無意識に、アタシは心の中でその言葉を復唱していた――死んでなんかいない。死んでなんかいない。アタシは、死んでなんかいない。だから、アタシは苦しいんだ。
『君を守るとか、一緒に戦うなんてことは言わない。ただ、僕は君と話がしたいから、またここにかけてきて? 君が眠るまで、話をしよう。』
 アタシは、泣きたいのか笑いたいのか、嬉しいのか悲しいのか分からかった。
ただ、無性に眠りたかった。水に沈むような感覚に、全てを委ねてしまいたかった。
鉛のように重い唇から押し出すように、アタシは言葉を紡ぐ。

おやすみ。

そして、受話器を抱いたまま、アタシは眠った。



  終