ネズミ

 オレのクラスに、ネズミというあだ名で呼ばれているやつがいた。
ネズミは、水木しげるのマンガのキャラに似ていた――といっても、『ゲゲゲの鬼太郎』に出てくるネズミ男じゃなくて、『悪魔くん』に出てくる情報屋に似ていた。
アイツがネズミと呼ばれていたのは、アイツが根津義治という名前だったのと、チビで痩せていたことも関係していたんだと思う。
 ネズミはおとなしいやつで、いつも教室の隅で本を読んでいるようなヤツで、一部の女子には「オタク」とか「キモイ」とか言われていたけれど、本人は全然気にしていないようだった。アイツは恋愛なんてものに興味が無かったんだ。
 だけど、アイツ以外の――もちろん、オレも含めた、ほとんどの高校生男子は、ヤリたい年頃……つまり、女子とは【個人的な意味で】仲良くしたい年頃だから、女子からキモがられてるネズミと仲良くするような、そんな変なヤツはいなかった。自分も同じように「キモイ」とか言われたくないからね。
だから、アイツには友達がいなかった。
アイツに話しかけるのは同じクラスのミツオくらい……だけど、ミツオはネズミの友達とか、ネズミと仲良くしたいから話しかけていたわけじゃない。
授業中にパンを買いに行かせたり、金を巻き上げたり、ときには、制服に隠れる場所――教師や親には見つからない場所を殴ったりしていた。
クラスの連中は、ミツオがネズミをいじめていることを知らなかった。気づいていたヤツもいたかもしれないけれど……。
なぜオレが知っているかって?
それは、オレもミツオの「ネズミ狩り」に参加させられていたから。

「おい、ネズミ。」
 体育の授業が始まる直前、ミツオがネズミを呼んだ。
体操服相手にもがいていたネズミが、慌ててこっちに走ってきた――ミツオはいつも体育の授業をサボるから、体操服に着替えない。
「お前、次の体育サボれよ。仕事があるんだよ。」
 ミツオがそういうと、ネズミは不安の表情を浮かべる。
ネズミは殴っても泣かないし、パシリに使っても文句は言わない、いつも無表情なヤツで、ミツオはそれが気に入らないようだった。
けれど、ネズミが表情を変えるイジメがあった――窃盗――ミツオが「仕事」と呼ぶそれ。
オレも、中学まではミツオに「仕事」をやらされていた。一回、万引きがバレてオヤジにぶん殴られたけど、ミツオにやらされたことは言ってない。チクったら、ミツオに仕返しされると思うと、怖くて出来なかった。
「でも、次の体育は休めません。」
「腹が痛くて、授業中はずっとウンコしてたとでも言えよ。」
 ミツオは、ネズミの言葉をせせら笑いながら言った。
体育教師の武田は生活指導担当で、教師の中では出欠に厳しい。他の授業中なら、おとなしいネズミがいないことに気づかれなくても、武田の授業では必ずバレる。
その上、武田は運動が出来るヤツは贔屓するけれど、ネズミのような運動オンチにはやたらと厳しい。
だから、ミツオの言ったようなバレバレの嘘も、運動が出来るヤツなら大目に見てもらえても、ネズミは許してもらえないだろう。
 真っ直ぐ立ったまま、ネズミは上靴のつま先をじっと見つめる。
「根津」という、サインペンで書かれた黒い文字に、何か魔法をかけているようにも、途方にくれているようにも見えた。
「お前さ。ハゲ田に“ネズミはペストにかかってウンコが止まらないそうです”って言ってこい。女子にも聞えるように、デカイ声で言うんだぞ。」
 ミツオに言われたオレは、怒りと恥ずかしさで耳が真っ赤になりそうだった。そんなこと言ったら武田にぶん殴られるかもしれない。しかも、女子に聞えるように言うなんて……。
けれど、オレはミツオが怖かった。ミツオの兄貴は族に入っていたし、ミツオもそいつらと付き合いがあるみたいだった。逆らうとどんな目に合うか分からない。
「わかりました。」
「絶対言えよ、オレは一階のトイレにいるからな。オレにも聞えるように言うんだぞ、わかったな?」
“はい”というオレの呻きは、チャイムの音にかき消された――キリリと胃が痛む。

 体育の授業は散々だった。
オレはミツオの命令どおり、グラウンドの隅にいても聞えそうなくらいデカイ声で『ネズミはペストにかかってウンコ止まらないそうです』と言った。
武田は最初、オレが何を言ってるか分からなかったようで、オレは二度も『ウンコ』と言う羽目になった。
オレはクラスの男子から笑われ、武田に殴られたうえに、延々とグラウンドを走らされた。本当ならオレの好きなサッカーだったのに。
オレの声はミツオの希望通り、グラウンドの反対側にいた女子にも聞えていたらしく、授業が終わって着替えに戻る女子たちが、オレに冷ややかな視線や「サイテー」という言葉を残して通り過ぎていった。
 オレは沸々と湧き上がる怒りを胸に、一人で教室へ向かう。
ネズミもそうだが、オレも友達がいない……高校に入ってネズミにターゲットが移るまで、オレはずっとミツオのターゲットだった。
高校入学一発目、クラスでやった自己紹介のとき、オレは汚れ芸人「フェラーリ千代ノ助」のモノマネを無理やりさせられた。
結果、オレは思いっきり外し、クラスの中で浮いた存在となってしまったのだ。
ミツオの「ネズミ狩り」が始まって、オレは万引きをさせられる事こそなくなったものの、こうして「ネズミ狩り」の一端を担わされると同時に、晒し者にされている。
 女子が着替えに使っている教室の前に、人だかりが出来ていた。
オレは少し嫌な予感がした――ミツオが言っていた「仕事」は、女子の財布を盗むことだったのだろうか。

 次の授業は妙にざわついていた。
といっても、この授業――古文は、念仏というあだ名を持つ定年間近の老教師が、チャイムが鳴るまでボソボソと喋っているだけで、ほとんどの生徒が聞いていないから、いつも騒がしいのだけれど……。
今日の感じはいつもと違っていた。話題はおそらく、さっきの事件。きっと、あっという間に何が起こったか広まり、その真相について様々な憶測が飛び交っているのだろう。
おそらく被害者は成田さん――学年でも一二を争う美人と言われている彼女は、体育の後、早退していた。
 オレはチラリとミツオを盗み見る、ミツオは一番後ろの席で教科書を出しもせず、周りの男子と喋っている。何食わぬ顔で、ウワサに背びれや尾びれをつけているのだろうと思うと、腹立たしかった。
ネズミは机にかじりつくように、真剣にノートを取っていた――この授業を真面目に聞いている、数少ない生徒の一人だった。
 オレは話す相手がいないので、興味がないフリをしながらひたすら聞き耳を立てていたけれど、結局のところ、何が起こったのかわからなかった。昼休みまでは。

「おい! ネズミ!」
 昼食時間の後、教室で本を読んでいたネズミを、呼び止めたのは宮脇だった。
成田さんは美人だけあってファンが多かった。宮脇もあわよくば成田さんとお近づきになりたいという手合いだ。
「え……」
ネズミが顔を上げる。汚れた眼鏡のレンズが、白い光を反射した、その時。

ドガーン!!!

 すさまじい音を立てて、ネズミが机や椅子ごと床にひっくり返った。
身長180はあろうという大柄な宮脇が、小柄なネズミの胸を思いっきり蹴ったのだ。
それまで騒がしかった教室が、一瞬にして静まり返る。
「お前がやったんだろ!」
起き上がろうともがいているネズミに向かって、宮脇は叫んだ。
「ぼ……僕……僕は……」
蹴られたショックで呼吸困難になったネズミは、息も絶え絶えに「僕は、僕は」を繰り返している。
「うるせぇ! 成田さんの制服でセンズリやがって! 変態ヤロウ! 成田さんが登校拒否になったらどうするんだよ、このクソネズミ!」
 宮脇は、まだもがいているネズミを蹴りつけながら言った。
女子の小さな悲鳴、その隙間から聞こえる呪詛のような呻き――「キモイ」「死ね」「変態」。
ミツオはニヤニヤしながら見ていた、ネズミの黒い制服に無数の白い足形がつき、眼鏡が吹っ飛び、鼻血で顔を塗らす様を。
 騒ぎを聞きつけた教師が「喧嘩はやめなさい!」などと、まったくのお門違い甚だしい台詞を叫びながら教室に飛び込んできたとき、ネズミはあと少しで死ぬんじゃないかと思うくらい、ズタボロになっていた。
教師が宮脇を羽交い絞めにし、二人を引き剥がす。
ネズミは片手で鼻を押さえながら、眼鏡を探す――見つかった眼鏡は、捻じ曲がっていた。
武田がすっ飛んできてネズミを立たせ、もう一人と一緒に生徒指導室へ、二人を連行して行った。
「フェラチオ、片付けとけよ。」
 宮脇とネズミが教師たちに連行され、すっかり見えなくなったのを確認したミツオは、笑を堪えながら言う――フェラチオというのは、ミツオがオレにつけたあだ名だ。
ミツオの言いつけに従って、オレはネズミの机と椅子を元に戻し、床に散らばった教科書やノートを集める。
 ノートに宮脇のものではない、小さな足形がうっすらと残っていた。
この大きさ、もしかすると女子だろうか……表立って暴力を振るったりはしないけれど、陰でコソコソいじめる、なんて陰湿なヤツだろう。
けれど、オレだって人のことは言えない……。
 ノートや教科書の中に、茶色い表紙の本が混ざっていた。
白い活字でデカデカと「地底旅行」というタイトルが書かれている。作者は――オレが大好きな「海底二万マイル」と同じ、ジュール・ヴェルヌだった。
オレはなぜか、その本を制服の中に隠し、自分の席に持ち帰った。

 その後、宮脇とネズミは教室に戻ってこなかった。
宮脇は停学処分になり、ネズミは骨折したとか何とかで病院に連れて行かれたらしい。
さっきの騒動で事件の全容が明らかになった。
 体育の授業が終わった後、女子が着替えに戻ると、窓が開いていた。慌てた女子たちは急いで盗まれたものが無いか調べたところ、特に盗まれたものは無いかったが……成田さんの制服に、べっとりと精液が付着していた。
 そんなことが出来るのは、体育で誰もいなかった一時間だけ、そうなると犯人はその時間、アリバイが無かったヤツだけ。
厳密に言えば、他のクラスのヤツでも犯行が可能だったけれど、クラスのヤツラは二人の人物を疑った。
横山光男と根津義治。つまり、体育の授業だけいなかったミツオとネズミ。
けれど、ミツオはいつも体育をサボっているから、あまり不自然に思われなかったらしく、クラスの疑念はネズミに集中した。
 しかも、体育を休んだ理由が「ウンコが止まらない」では、いかにも嘘っぽく、それが余計に疑いを助長していた。
彼らの疑いを最終的な確信にしたのはミツオだった。
念仏の授業中、ミツオは言ったのだ「オレ、女子部屋の方からネズミが走ってくるの、見たぜ。」と。
 成田さんのファンの中でも一番カッとなりやすい宮脇は、ミツオの「目撃証言」をすっかり信じ込んでしまい、昼休みにネズミを殴った。
それからネズミは、変態のレッテルを貼られてしまった。オレとミツオを除く、クラス全員に。

 事件から三日間、成田さんは学校を休んでいたけれど、すぐに元通りの表情で登校してきた。
ショックを受けたのは確かなようだけど、すっかり立ち直って気にしていないようだった。
他の女子が「犯人はネズミだよ!」と言うと、成田さんはちょっと困ったような表情を浮かべた。
 一週間で宮脇が登校してきた。
罰で丸刈りにさせられたせいか、しばらくは不機嫌だったが、成田さんが元気そうなのを見ると、たちまち勢いを取り戻した。
 ネズミは宮脇が戻ってきた後も戻ってこず、ミツオはそのフラストレーションをオレにぶつけてきた。
オレは中学時代と同じように、ミツオのパシリに逆戻りしていた。
 事件から二ヶ月、あの話は誰の口からも出なくなり、まるで最初からなにも無かったように、教室は元通りの喧騒と怠惰に包まれていた。
ただ、ネズミの席だけがぽっかりと空いていた。

「フェラチオ、カツサンド買ってこい。」
 二時間目と三時間目の合間に、ミツオが命令した。
オレはミツオを見下ろして、頷く――中学の頃、ミツオはオレよりでかかったけれど、高校に入ってオレは身長が二十センチ伸びた。今ではオレの方がミツオより頭一つくらい大きい。
 オレは財布をもって廊下に飛び出し、息を切らせて購買へ駆け込んだ。 カツサンドは人気商品で、早めに買っておかないと売切れてしまう――この日も、すでに二つしか残っていなかった。
カツサンド一つ二百三十円。オレの毎月の小遣いは五千円、ミツオに散々たかられたせいで、もう二千円しか残っていない。
二つあるのに一つしか買わなかったとバレたら、ミツオは怒るだろう……けれど、二つ買うと小遣いがかなり減ってしまう。もし、次の小遣い日までに金が無くなったら「仕事」をさせられるに違いない。
 オレが財布とカツサンドを交互に眺めながら、二つ買うべきかどうか悩んでいると、横から白い手が伸びて、カツサンドを一つ摘み上げた――成田さんだった。
「石井君、カツサンド、なくなっちゃうよ?」
 成田さんはいかにも女の子らしい声でそういうと、小動物のように愛らしい目を細め、ニッコリと微笑んだ。
オレは慌てて最後の一個を取ると、お金を支払う――成田さんの可愛さが気になるより、自分の財布の損害が少なくて済んだことに安堵してしまうことに若干の情けなさを感じた。
 オレが袋に入ったカツサンドを受け取って教室へ向かうと、成田さんはオレと並んで歩き始める。
オレは、成田さんと二人きりで会話できるチャンスを喜ぶより、ミツオに見つかったら何かされるんじゃないだろうか……という不安が大きく、あたりの気配をうかがうようにあるいた。幸い、休み時間も半分が過ぎていたこともあり、購買付近は人影もまばらだった。
「石井君……横山君と仲いいの?」
 成田さんの突然の問いかけに、オレは驚いた。
オレがミツオと……?
はたから見れば、オレはミツオとしか話さないし、そんな風に見えるのかもしれない。けれど、オレはミツオの友達じゃない。もちろん、同類でもない。そうでありたいと願っている。
「いや……ただ、小中で一緒だったから……。」
「そっかぁ……。」
 オレが言うと、成田さんはそう応えたきり、沈黙してしまう。
もしかして、成田さんはミツオのことが好きなんだろうか? 何か言いたげに、オレの様子を伺っているけれど、もしかして、ミツオとの仲を取り持って欲しいとか?
「あのね、石井君。お願いがあるの。」
 オレは内心、ため息をついた。
人前では、ちょっと不真面目だけどお調子者という役柄を演じ、オレやネズミの事をパシリに使ったり、小遣いを巻き上げていることを上手く隠している。
クラスではそこそこの人気者で、身長こそそれほど高くないけれど、顔はチャラチャラした男前という雰囲気だ。
成田さんも、結局はミツオの外見に騙される、普通の女の子なんだ……。
「根津君のところ、お見舞い行ってくれないかな……。」
え?
 オレはまるで奇襲を受けた気分だった。驚きのあまり、根津というのが、ネズミの名前だと思い出すのに、少し時間がかかったくらいだ。
今は誰もその話しをしないけれど、成田さんの制服にイタズラしたのはネズミということになっている。本当のことかどうかは別として、被害者の成田さんが、ネズミのところにお見舞いに行って欲しいというなんて……。
「あのね、先生には誰にも言うなって言われたんだけど、根津君、学校辞めちゃったんだって。根津君が学校を辞めた理由は教えてもらえなかったけど、あのこととか、宮脇君のことが原因なんじゃないかって……宮脇君が根津君に暴力振るったの、私のせいだし……。」
 ネズミが学校を辞めた――。
アイツ、逃げたんだ。くそっ! お前がいなくなったら、オレがまたターゲットにされるんだぞ! 卒業までずっと、ミツオのターゲットにされるのなんてごめんだ!
オレは一瞬、頭に血が上り、すぐにサッと血の気が引いた――オレは最低だ。
そうだよな、ネズミだって毎日いじめられたら、逃げたくなるよな。そうだよな……オレ、ネズミがどんな気持ちか一番分かってたはずなのに、ミツオが怖くて、自分にターゲットが戻るのが怖くて、ネズミのこと助けようともしなかった。オレ、本当に最低だ。
「私……根津君に謝りたいの。でも、あのことが原因だったら、根津君、私になんか会いたく無いでしょ? だから、石井君。お願い。」
 成田さんは本当に責任を感じているようだった。自分で会いに行きづらい理由も納得できる。けれど、わからないことがあった。
「成田さんは被害者でしょ? どうして謝るの?」
 単なる責任感、単なる自己満足だとしたら、オレは行きたくなかった。 ネズミが学校を辞めてしまった原因は、オレにだってあるから……けれど、オレはそれを認めたくなかった。自分の弱さ、自分の身勝手さを直視したくなかったから。
 オレの質問に、成田さんはキッパリとした声で言った。
「根津君、みんながいうようなことする人じゃないもの。」

 その週末の日曜日、オレはバスに乗って市立病院へ向かった。
クラスの連絡網を見てネズミの家に電話すると、アイツの母ちゃんが出た。
思っていたより若い声だったので、オレは妙に緊張にしながら考えていた口実で病院と病室を聞く。市立病院の西病棟三階、306号室だそうだ。
 病院の案内にしたがって病棟に入ったオレは、メモを片手にネズミの病室を探す――306……306……あった!
病室は六人部屋で、入っているのは四人。一番右上に縦長のクセ字で『根津義治』と書いてあった。
 アイツの母ちゃんに、見舞いに行く日や時間を言っていないので、ネズミはオレが来る事を知らない。アイツはどんな顔をするだろうか? アイツはいつも無表情だったから、オレが来てもなんとも思わないかもしれない……いや、オレのことを恨んでいて、背筋が凍るような目つきでオレのことを睨むかも……。
 ドアの前でじっと考え込んでいると、ガラガラという音が近づいてきた。
振り向くと、点滴スタンドを杖の代わりにして歩いている爺さんが、深いシワに埋もれた目で、こっちを見ていた。
「こ……こんにちは」
「あー……」
 爺さんはニッコリ微笑んで会釈をすると、オレの目の前にあるドアを開けようとする。
片手しか使えない上に、力が入らないのか、ドアを開けるのが大仕事という感じだ――オレは、爺さんに代わってドアを開けた。
「あー……」
 爺さんはもう一度会釈をすると、点滴スタンドを押しながら病室の奥に向かった。
ドアを開けたことでオレは決心がつき、病室に足を踏み入れる。
カーテンの隙間から見えるベッドをちらちら確認しながら、ネズミのベッドを探す。誰のものでもないベッド、イヤホンをつけてテレビを見ている爺さん、小さい子供連れの見舞い客――病室の一番奥、カーテンの隙間からちらりと、黒い学生服が見えた。
 オレは底で一旦立ち止まり、深呼吸を二回する……すーはー、すーはー……心の中で「行くぞ!」と渇を入れ、一歩踏み出す。
「ネズミ……」
カーテンをそっと開けて呼びかける――ベッドの上は、空だった。
「なんだよ……」
 オレはがっくりした反面、少しほっとした。
トイレにでも行ってるのかな……。
ネズミのベッドは窓際で、大きな窓から柔らかい光がさしていた。ベッドに腰掛けると、ポカポカ暖かくて気持ちよく、オレは少し眠気を覚えた。
さすがに、病院のベッドで寝ちゃ悪いな……と、思ったオレは、何か眠気覚ましになるようなものはないかと思い、辺りを見回してみる――ベッドの枕元に『石の箱舟』とかかれた大学ノートが置いてあった。
オレは何気なくそれを手に取ると、パラパラとめくる――それは、あの縦長のクセ字で書かれた小説だった。

 遠い未来の話、人類は科学を発展させ、宇宙に進出していた。
惑星『サイレント・ノア』は、地中に豊富なレアメタルを擁した星だ。
サイレント・ノアには二種類の人間がいる――遺伝子操作で産まれた、美貌と知性に溢れた支配者階級と、遺伝子操作を拒否し、自然な繁殖で生まれた奴隷階級。
科学万能の時代、神を畏れる心を失った支配者たちは、奴隷階級をこう呼んだ――ゴッド・チルドレン。
 ヨシハルはゴッド・チルドレンの青年だった。
母一人子一人、家は貧しく、ヨシハルは朝から晩まで、休むことなく地中に潜り、チタンやタングステンを――。

「石井君?」
 突然の呼びかけられ、オレはベッドから数センチ飛び上がった。
浴衣のような寝巻きを着たネズミが、不思議そうな表情を浮かべて立っている――さっきの爺さんと同じように、点滴スタンドを持って。
「お……おう、ネズミ……元気か?」
 オレはぎこちなく笑う。病院に来て「元気か?」と聞くのは明らかに妙だな、と今更思った。
だぼだぼの寝巻きのせいか、ネズミは学校にいたときより痩せているように見えた。顔色も、日焼けしていないせいで青白く見える。
ネズミは、首をかしげて少し考えるような表情を浮かべていた。オレが何のために来たのか、考えているんだろう。
「成田さんから、学校辞めたって聞いて……」
 オレがベッドから立ち上がろうとするのを、ネズミは手で制すると、隣に座った。ベッドか小さく軋み、ネズミの体重の分だけ沈む。
妙な形で腕に絡まった点滴のチューブをどけると、ネズミは膝の上に視線を落とし――目を見開いた。
オレは、さっきのノートを持ったままだったことに、今更気づいた。慌てて隠そうとしてももはや手遅れ。
「それ……読んだの?」
 ネズミはオレから視線を逸らし、足元を見つめて呟いた――淡々とした口調。ある意味では、怒鳴られるより怖い。
オレは、嘘を言ったところで状況がならないことを理解した。――「うん。少し……。」
ネズミが、ぎゅっとベッドのシーツを掴む。唇を噛んで、怒りを落ち着かせようとしているようだった。
「勝手に読んでごめん……まだ最初の方しか読んでないから! ホント、ごめん。でもすごいよ、ネズミ。お前が書いたんだろ?」
「石井君、正直に言ってくれないか? その……面白いって思った?」
 意外な反応だった。
オレはすっかり、ネズミが怒り狂って、それこそ殴りかかってくるかもしれないと思っていたくらいだ。けれど、ネズミは怒ってなんかいなかった。怒りを落ち着けようとしてるんじゃなく、恥ずかしがっていたんだ。
「うん、まだ最初しか読んでないけど、面白い……というか、面白そうだと思った。これからどうなるんだろうって。正直、続きが気になる。」
 正直な感想だった。あの日、『地底旅行』を持って帰ったとき、もしかしてネズミとオレは似たような趣味なんじゃないかと思ったんだ。
確かに、ネズミの小説はあまり上手くないかもしれないし、設定もありきたりかもしれない、けれど、オレの好きそうな話だった。続きが読みたい。本当に。
「ネズミがよければ、続き、読んでいいか? どうしても嫌だって言うなら仕方ないけど……。」
 オレがそういうと、ネズミは初めてこっちを見た。新しくなった眼鏡の奥で、黒い瞳が輝いている。
「ありがとう、石井君。でも、まだ書きかけなんだ。死ぬまでに完成させるから、それから読んでよ。」
 今までに見たことが無いほどの満面の笑顔で、ネズミは冗談を言った。こんな冗談を言うヤツだなんて、全然知らなかった。
オレはちょっと嬉しかった。ネズミは思っていたより明るいヤツで、実は隠れた才能の持ち主だった。
オレは、今までのことを謝るのは、今しかないと思った。
「ネズミ……いや、根津。今までごめん。オレ、ずっと見てたのに何もしなくて……オレ、卑怯者だったよ。ミツオがお前をいじめてる間は、オレは安全だって……。ホント、最低だよな。ごめん、ホントにごめん。」
「石井君……謝らなくていいよ。僕こそ、石井君に謝るべきなんだ。僕のせいで石井君、恥ずかしい思いしただろ? 僕が学校を辞めて、横山君は石井君に酷いことしてるんじゃないかって、ずっと気になってたんだ。石井君、ごめんね。ホントは、成田さんや宮脇君にも謝らなくちゃいけないんだ。成田さんの制服を汚したのは僕じゃないけど、僕が教室から盗んだんだから」
 ネズミは……誰のことも怨んだり、怒ったりしていなかった。その上、自分が一番の被害者のはずなのに、オレや宮脇にまで謝ろうとしてる。ホントに、どこまでお人好しなんだよ……お前、そんなんだからミツオに目ぇつけられるんだよ。お前馬鹿だよ。
 気づいたらオレは泣いていた。鼻水も涙も止まらない。オレ、もう高校生なのに、人前で泣くなんて小学生みたいで、めちゃくちゃかっこ悪いって分かってるけど……。
「根津……オレのこと、許してくれ。ごめん、ごめん……」
「石井君、許すも何も……僕が悪いんだよ。あっ! 石井君! 鼻水すごいよ! ベッドに届きそうなくらい垂れてるよ!」
 ネズミの鼻水発言に、オレは思わず噴き出した――と、同時に、鼻水も思いっきり噴き出し、オレは鼻の下がドロドロになった。
「ちょ……石井君! ベッド汚さないでよ! 僕は当分の間、ここで生活しなきゃならないんだからね!」
 言葉は怒っているけど、ネズミは顔が笑っていた。目は少し潤んでいるように見えたけど、それはきっとオレの気のせいだろう。
ネズミがティッシュを箱ごとくれたので、オレは盛大に鼻をかんだ。
「なぁ根津……。お前さ、どうして学校辞めたんだ?」
 使用済みのティッシュを丸めると、ゴミ箱に向かって投げる――ティッシュは、ゴミ箱の淵で跳ね返り、中に落ちた。
ネズミはちょっと困ったような表情を浮かべ、それからニッコリ微笑んでいった。
「今までどおり、ネズミでいいよ。結構気に入ってるんだ……学校を辞めた理由は……うん、誰にも言わないって約束してくれる?」
 外見を茶化すようなあだ名が気に入ってるなんて、ネズミは本当に変なヤツだ。
もしオレがネズミと同じ外見で「ネズミ」と呼ばれたら……きっと腹が立つだろう。
ネズミがなぜ、そのあだ名を気に入っているのかも気になったけれど、それ以上に学校を辞めた理由の方が気になった。
「分かった、絶対言わない」
「実は……僕、小説家になるんだ。知り合いにプロの人がいて、その人のところで修行することになったんだ」
 オレは本当に驚いた。ネズミの言うことは、オレには想像のつかないことばかりだ。
ネズミが本格的に小説の勉強を始めたら、本当に凄い作家になるかもしれない。ネズミはいつも本を読んでいるから、きっと面白い小説を書くような気がする。
オレはいつか近い未来、凄い作家になるかもしれないヤツと話してるだけじゃなく、デビュー前の、秘密の作品を読ませてもらう約束までしたんだ。
すげえよネズミ! オレなんて、高校卒業した後のことも考えてないのに、ネズミはもう、ずっと先に向かって歩いてるんだ!

 夏休みに入ると、オレはアルバイトを始めた。
バイトが休みの日は、暇を見てネズミのところに行く。
最近読んだ本や、公開中の映画、バイトのこと、いろんなことを話して、オレたちは親友と呼べるくらい仲良くなった。時々、面会時間が過ぎても居残っていたのがばれて、看護婦さんに叱られたりもしたが……まぁ、大目に見てもらうことのほうが多かった。
 ネズミのギプスはもう外れていたけれど、リハビリや夏風邪をこじらせたとかなんとかで、入院したままだった。
ネズミは、学校にいたときより明らかに痩せていたけれど、病院食の量が少ないのと、夏バテ、運動していないせいで筋肉が痩せてしまったから細くなったんだといっていた。
 八月、ちょうどお盆のシーズン、バイト先が休みになったこともあり、東北にある母親の実家に帰省することになった。
オレはお土産のリクエストを聞くために病院へ行った。
ネズミはあまり体調が良くなさそうだった。なんでも、酷い夏バテらしい。
肝心のリクエストは「石井君が元気に帰ってきて、いろんな話を聞かせてくれること」だそうだ。ホントに変なヤツ。
 帰省から戻ると、途端にバイトが忙しくなった。
オレは朝から晩までバイトをして、毎日クタクタになって帰った。ネズミの夏バテは良くなっただろうか?
 ひぐらしが鳴きはじめる頃、ようやくバイトが落ちついた。明日はやっと休める。ネズミに会いに行こう。
そう思いながら一日のバイトを終え、熱い湯船に浸かっていると、電話が鳴った。
母ちゃんが電話を取ったらしく、遠くで「ハイ、ハイ」という声が聞こえる。
オヤジの実家かな?と思ったそのとき、オレの名前が呼ばれた。
 電話……? オレに……?
相手は誰だろうと思いながら、急いで体を拭くと、オレは受話器をとる――「はい、石井です」
受話器の向こうから聞こえた声に、オレは足元がぐらついた。

ネズミが死んだ――。

 次の日、オレは久しぶりに制服を着て、ネズミの家に向かった。
ネズミの家は小さな借家で、葬式だというのに人気が無かった――白い布のかかった事務机の前に、中年男が汗を拭きながら座っている。
オレは慣れない筆ペンで住所と名前を書き、オヤジから渡された香典袋を渡す。
玄関は開け放されていて、中の様子が見えたが――祭壇の前にいるのは、お経を唱えている坊主と、黒い着物の女性だけだった。
 オレが靴を脱いであがると、その女性が深々と一礼する。オレもつられるように会釈すると、女性の前に正座した。
「石井君ね? 今日は来てくれてありがとう。」
 ネズミの母ちゃんらしい。小柄で目が大きいところが、ネズミと似ていた。
オレは焼香を済ませると、小さな祭壇に飾ってある写真を見つめた。
学校にいたときの、あの無表情なネズミがいる――ネズミ、なんて顔してるんだ。病院にいたときはいつも笑ってたじゃないか。
「義治は、入院してすぐ、末期がんだと診断されました。スキルス胃がんにかかっていて……余命三ヵ月だと……。」
 ネズミの母ちゃんが声を詰まらせる。
がん……? 余命三ヵ月……? そんな、あんなに元気だったじゃないか。嘘だろ? 悪い冗談……。
そうだ、ネズミはあの時「死ぬまでには完成させる」って言ってた。あれは冗談なんかじゃなかったんだ。あの時、ネズミはもう、自分の命が長くないことを知っていたんだ。
それに、ずっと不思議だったんだ。どうして骨折で入院したアイツが、点滴なんか打ってるんだろうって。普通なら、骨折の人たちって外科だよな。なのに、なんでアイツは内科の病棟にいたんだろうって。
「義治が、石井君にと……。」
 ネズミの母ちゃんが、白い箱を出した。
最中が入ってるような、薄っぺらい箱――ちょうどノートが入りそうなくらいの……。
オレはそれを受け取ると、そっと箱を開ける。
『石の箱舟』が、眠るように入っていた。

「リバーストン、見ろよ。俺たちの星が……サイレント・ノアが遠ざかっていく。」
「ヨシハル、やったな。俺たち、とうとう宇宙に出たんだ。これからは、俺たちみんなで、新しい星で暮らそう。」
 ヨシハルとリバーストンは、強く手を握り、互いの健闘をたたえた。
深い闇のなかに浮かぶ青い星――サイレント・ノアは、二人を見守るように優しい光を放っている。ノアの子孫、ゴッド・チルドレンを――。

「おい、フェラチオ。アンパン買ってこい。」
 二時間目と三時間目の間の休み時間、ミツオはオレの肩を叩いて言った。
オレはいつものように、慌てて財布を取り出そうとした、その時――。
「なんだ、この汚いノート? なんだこれ、ネズミの字じゃねぇか! アイツ、ネズミのクセにこんなもん書いてたのかよ。」
 オレの机の上にあった『石の箱舟』を見て、ミツオが笑った。
ミツオの手が伸び『石の箱舟』をさっと掴む――オレの頭に血が上った瞬間。
「汚い手で触るな!」
 今まで出したこと無いくらいの大きな声が、オレの胸から飛び出した。 椅子がひっくり返るような勢いで立ち上がると、教室が水を打ったように静まり返る。
ミツオが、ものすごい目つきでオレを睨みつけ、オレは一瞬、怖気づきそうになった。
 負けるな、体はオレのほうがデカいんだ。力だってきっと、オレの方が強い。
こいつはネズミをバカにした。今までのことは、ネズミが許したことだからオレも許す、けれど、ネズミが死んだ今。アイツのことをバカにするやつはオレが許さない!
オレはミツオを睨み返した。視線で殺せるんじゃないかと思うくらい、強く。
「……なんだよ。冗談だろ。」
 ミツオはオレの机の上に『石の箱舟』を放り出すと、面白くなさそうな表情で教室を後にした。
やった! オレはミツオに勝ったんだ!
気が抜けたように、椅子にへたり込む――教室中が騒然となった。
「石井! お前すげえ迫力だな!」
「石井君! かっこよかったよ!」
みんながオレの周りに集まる。
成田さんが、こっちを見て微笑んだ。


俺たちはネズミだ、いつも穴の中に潜って、上のヤツラには害虫扱いされる。
だけどなぁ、リバーストン。ネズミは何日も、何ヶ月も、何年もかけて、固い壁をぶち抜くんだ。
俺たちには想像できないほど固い壁でも、その先にある世界を目指して、ネズミはかならずやり遂げる。
リバーストン、俺たちはネズミだ。誇り高いネズミだ。だから、ネズミらしく戦おうじゃないか。階級の壁をぶち抜いて、この星の壁をぶち抜いて、新しい世界へ行くんだ!

そうだな、ネズミ――。

            「終」