今宵滝行で

 酒神の加護を受ける大陸ル・ジャド。豊かな大地に恵まれたこの国は、心優しき精霊王に統べられた地上の楽園であった。王は人間を愛し、人間は王を愛し、互いを敬い満たし合うその関係は堅く、それは永遠に続くかのように思われていた。
 しかし、枝の先に実った青い果実が熟すと、後は腐り落ちるのみであるがごとく、満たされた人間の心は次第に荒廃をはじめ、己が幸福であることよりも己が他者より満たされていることを求めるようになる。
 命を繋ぐのに十分な糧を得てもなお人間は、誰よりも富を得たい、誰よりも満たされたいという一心から精霊王の恵みと祝福を求め、精霊王は人間の飽くなき欲を制御するための【秩序】を作った。
 秩序。それは世界を守るための盾であるとともに、自由を縛る鎖にもなる諸刃の剣。それは人間の欲が深まるにつれその数を増やし、幾重にも重なる呪いとなって精霊王を蝕み——やがて、王はその名を失った。

 酒神の加護を受ける大陸ル・ジャド。豊かな大地に恵まれたこの国には、悪しき暴君コルチゾの圧制に苦しむ人々がいた。彼らは酒神に救いを求め、酒神は彼らに一人の乙女を遣わした。
乙女は、世界に散らばる酒の精霊を集め世界を救うための旅を始める——これはそんな物語のほんの一部である。


 黄金色の太陽が西の山の端にかかり、東の空が徐々に闇を帯び始める。使い古された木偶人形の影が長く伸びる訓練場で、一人の青年が剣を手に身構えていた。
「先輩、お願いします」
 騎士団の制服を身にまとったその青年は目の前に立つ木偶人形——否、その上に止まった一羽の鳥に向かって言うと、口元をきりりと引き締める。先輩と呼ばれたオレンジ色の鳥は、羽をわずかにふるわせながら小さな声を立てて笑った。若く美しい女の声で。
「その目、いいわね。昔を思い出すわ……。でも、あなたに耐えられるかしら?」
 ゆっくりと両翼が広がり、夕日を受けてギラリと光った。羽の一枚一枚が研ぎ澄まされたナイフのような殺気を放ち、肩に乗る程度の小さな体が何十倍にも膨れ上がったかのような重圧がのしかかる。
「……っ!」
 次の瞬間、オレンジ色の閃光のようなものが空を走った。青年はそれを目で追い、自分にとびかかってくるそれを打ち払うように剣を振る。閃光は刃が当たる直前に軌道を変えて斬撃をたやすくかわすと、極小の軌道で円を描いて再度襲い掛かる。青年は瞬時に身をひるがえしてこれをかわした。
 光と剣の応酬は幾度となく続き幾度となく交わりそうになったが、全てが髪一筋の距離でかわされた。風を切る音と荒い息の音だけが聞こえ、体は淀みなく流れる水のように動く。視線は全てを捕らえながらもただ一点のみを追い、髪の一本一本にまで神経が通っているようだった。
 最大限に研ぎ澄まされた感覚がわずかな空気の揺れを察知し、青年は舞い落ちる木の葉のように鮮やかに身をひるがえしながら斬撃を放ち、その切っ先に閃光を捕らえた——そう感じた刹那、耳元で小さな金属音が聞こえた。
 次の瞬間、脇腹に重い衝撃が走り、息が止まる。目の前が真っ赤に染まったかと思うと体が跳ね飛ばされた。
「ぐはっ、ごふっ、げほっ」
 跳ね飛ばされた青年は木偶人形に衝突し、地面に倒れ伏して激しく咳き込む。短く刈り込まれた黄金色の髪は乱れ、精悍な横顔は痛みと苦しさで歪んでいた。
「また集中が途切れたわね、アルト」
 横たわる青年——エールの精霊、アルトの肩にとまったオレンジ色の鳥は、黄色いくちばしで彼のこめかみをコツコツとつつく。その様子は、人間の言葉を話しているという点をのぞけばどこにでもいる鳥といった風情で、先ほどまでの重圧感は微塵も感じられなかった。
「せんぱ……もう少し……手加減……」
「何言ってんのよ。戦場で敵が加減してくれるの? してくれないでしょ。甘いこと言わないの」
「うぐぅ……」
「さーて、今日の訓練はこれでおしまい。じゃ、せいぜい体をケアしておいてね」
 彼女はそういうと、倒れたまま動けないでいるアルトを置き去りにして飛び去って行った。アルトは肩で息をしながら茫然とそれを見送ると、先ほどの訓練の様子をゆっくりと思い起こし始める。
 目は的確に動きを捕らえていた。体は意識をする必要がないほどスムーズに、正確に動き、空気の微細な変化や風の動きまで感じ取れていた。間違いなく完璧だった。それなのに……。
 アルトはゆっくりと体を起こした。星をかたどったイヤリングが耳元で小さな金属音を立てる——この音。この音に気を取られた瞬間、全ては瓦解したのだ。
「……集中か」
 わずかな音で集中が途切れ、その瞬間に隙ができた。時間にすれば一秒にも満たないわずかな隙。だが、この隙が生死を分ける。それが戦いというものだ。
 アルトはゆっくりと立ち上がって衣服についた汚れを軽く払う。脇腹とぶつけた背中が痛い。服をめくってみると脇腹は青黒く腫れてジンジンと熱を帯びている。背中は見えないが、脇腹よりは少しましな程度の打撲を負っているのだろう。できるだけ早く冷やしたほうがよさそうだ。近くに小さな滝と湖がある。そこで冷やすついでに身を清めよう。

 訓練場から湖までは歩いて十分程度の距離だったが、訓練の疲労で膝に力が入らず、通常の三倍近くの時間がかかってしまった。空はすでに暗く、青白い満月が東の空に浮かんであたりを照らしている。濡れた岩肌や滝の水しぶきが月光でキラキラと輝き、まるでダイヤの粒のように見えた。
 アルトは周囲を見回して誰もいないことを確認し、いそいそと服を脱ぐ。腰巻き一枚になった体は鋼のように鍛え上げられ、まるでギリシャ神話に登場する英雄の像のようだった。
「痛っ……」
 湖に身を沈めると冷えた水が傷を刺激し、鋭い痛みが走る。温度差のせいか熱が高まったような気がして思わず呻きが漏れた。体が水に慣れるまでの間、この疼きに耐えなくてはならない。
 両手で水をすくって顔を洗う。二度、三度と顔を濡らすうちに体が水に馴染み、傷の痛みが治まりはじめ、アルトは小さく息をつく——。
「アルトさん?」
「わぁっ!」
 突然背後から名を呼ばれ思わず声をあげる。瞬間、脇腹に鋭い痛みが走り、今度は声にならない叫びが漏れた。ゆっくり振り向くと、蜂蜜色の髪をした細身の男が岸から見下ろすように一人立っている。蜂蜜酒の精霊、ベレヌス=メブミードだった。
「どうしました? どこか痛むのですか?」
「ミ……ミード殿……いつからここに」
「今日はずっとここにいましたよ。あぁ、そんなことはいいのです。どこか怪我でもしているのですか?」
「ちょっと訓練で……」
「それはそれは……。少し待ってくださいね」
 そういうとミ-ドはゆっくり服を脱ぎはじめ、腰巻き一枚の姿になると静かに湖に入った。細身でありながら程々の筋肉がついた体はしなやかで腰が細く、月明かりの下ではどこかなまめかしく見える。
「あ、あの……なぜ入ってくるのですか?」
「? だって私、湖に入りにきたんですよ? さぁ、立ち上がって体を見せてください」
 なんだか話がかみ合っていないような気がしたが、アルトは立ち上がってミードに背中を向ける。
「背中のほうは冷やすだけで大丈夫そうですね。問題は脇腹でしょうか……すこし、触ってもいいですか?」
「はい、どうぞっ……!」
 答え終わるや否や、細長い指が脇腹の上をまさぐるように這う。体をくすぐられるような感覚と痛みが同時に起こり、思わず声が漏れそうになった。
「骨は折れていないみたいですね」
 肋骨のラインを背後からゆっくりとなぞり上げられ、背筋に甘くしびれるような感覚が走る。傷の状態を確認されているだけだというのになぜか背徳的な気分になり、恥ずかしさで顔が紅潮するのが分かった。
「痛みを少しだけとっておきましょう。かなり楽になると思いますよ」
 ミードの手のひらに淡い光が宿り、脇腹の傷を照らす。春の日差しのような温かさがゆっくりと染み渡り、痛みが溶けていくような感覚が広がった。彼が持つ“酩酊”の力は、傷を癒すことはできないものの、痛みの感覚を鈍らせて苦痛を和らげることができる。
「……はい、終わりました」
「ありがとうございます」
 元の痛みを「10」とするなら、手当てを受けた後の痛みは「2」といったところだろう。痛みが軽減されたせいか、呼吸が楽になった気もする。
「本当は完全にとってしまいたいのですが、痛みが完全になくなると傷を悪化させてしまうことがあるので、元気な方の痛みは少しだけ残すようにしているんです。すみません」
「元気な方の痛み……ですか」
 あえて“元気な方”とつけるのは、これまでに“元気ではない方”に対して能力を使ったことがあるからだろう。それがどういた状態を意味しているかは推して知るべしといったところだろうか。
 アルトとミードが出会ったのは、乙女がこの世界に顕現した後のことだった。精霊騎士団に所属し多くの仲間に囲まれながら過ごしてきたアルトとは違い、ミードは寒さの厳しい北部にある朽ちた古城で隠れるように住んでいたという。
 誰に対しても穏やかで好意的な彼は、いかに親しくなった相手に対しても自分について話そうとせず、精霊仲間はもちろん乙女ですらその過去について詳しくは知らない。ただ、かなり永い時を生きてきたということと、かつてはさまざまな場所を旅していたこと、人間と酒神を繋ぐ司祭のような仕事をしていたこと、そして何らかの理由で人の世から遠ざかったかれは、『メブミード』ではなく『ミード』と呼ばれたいと望んでいることだけは確かだった。
「では、私は行きますね」
「待ってください、ミード殿」
 湖の奥の方へ進もうとするミードをアルトは呼び止める。彼はゆっくり振り返ると静かに微笑みながら小首をかしげた。長いまつ毛に縁取られた青い目を細めたその表情は優美でありながら、どこか悲しげにも見える。
「あの、どこに行くのですか?」
「あちらにある滝です」
「何かあるのですか?」
「いいえ、あるのは滝だけです」
「では、何をしに?」
「打たれに行くのですよ。まぁ、精神修養のようなものですね」
「精神修養……ですか」
 その言葉を反芻するように何度もつぶやく。精神修養。精神を鍛錬して意志の力を磨くこと。意志の力。自身の心を制御し、誘惑や感情に流されず、やるべきことに集中するために必要な力。集中……集中?
「もしやそれは、集中力を高めるのに役立ちますか?」
「……そうですね。アルトさんがどのような意味で“集中力”という言葉を使っているかにもよりますが、おそらくは。ただ、滝行は慣れるまで少し難しいですよ」
 目の前が開けたような気分だった。何度挑戦しても負けてしまうあの攻撃に、今日は勝てそうだった。きっとあの瞬間に集中が途切れなければ勝てただろう。だが、わずかな音に気を取られた瞬間、集中が途切れて負けてしまった。精神修養を積み集中力を維持できるようになればきっと勝てる。その糸口をようやく掴んだのだ。
「ミード殿、よろしければぜひご教示ください!」
 アルトはミードの手を両手で握り、瞳を見つめながら頼みこむ——ミードは突然手を握られたことに驚いているようだったが、頼まれること自体は予想していた様子でほんの少し困ったように笑うと「ではご一緒しましょう」と答えた。

 湖は滝の方に進むにつれ少しずつ深くなっており、岸から数メートル離れると胸元まで水位が上がった。湖底には隆起した部分と窪んだ部分があり、先に立って進むミードはその隆起した部分だけを選んで歩いているようだった。何度もこの湖を渡って滝に打たれているのだろう。
「ミード殿、今日はずっとここにいたと言っていましたが、何をしていたのですか? 泳いでいたわけではなさそうですが」
「睡蓮を見ていました。湖の端の方に群生しているのです。手のひらに乗るくらいの小さな白い花で、大体昼前から日暮れまで咲いています」
「……もしかして、咲き始めからずっと見ていたのですか?」
「いいえ。咲く前から見ていました」
 咲く前から見ていたということは、朝からずっと睡蓮を見ていたということだろうか。どことなく浮世離れしているとは思っていたが、ここまでくると相当な変わり者としか言いようがない。ただ、一つのことをそれだけ長時間続けられるというのは、ある意味かなり集中力があるともいえる。ただぼんやり眺めるのでも、些細な部分を観察するのでも、それを長く続けるというのは簡単に見えて決して簡単ではない。
「滝行はどのようにすればいいのでしょうか? ただ滝に打たれるだけではありませんよね。何か考えればいいのですか?」
「どうやるかはその方によって違うと思いますが、私の場合は何も考えません。自分自身の感覚や、胸のうちに沸き上がってくるものをただ眺めるのです。それについて考えると感情が動きます。感情が動くと隙間ができる。隙間ができると何かが入る」
「何か……とは何ですか?」
「欲や雑念。恐れ、不安、後悔。まぁ、そんなものですね。ここから岩場に上がりましょう。滑りますから気を付けてくださいね」
 そういうとミードは湖から岩場に上がり、濡れた石の上をすたすたと歩き始めた。体や髪から水が滴り、月明かりを浴びて輝きながら落ちる。それは岩の上にできた浅い水たまりに波紋を起こし、光の破片となって水の上でゆらゆらと踊った。まるで光の尾を引きながら歩いているようだ。
 アルトは足元に注意しながら慎重に歩を進める。満月に照らされているため岩の隙間に足を取られるようなことはなかったが、ところどころに苔が生えているせいか滑って何度か転倒しそうになった。
 滝は少し距離を開けて二本並んで流れている。奥の滝は水量が多く激しくしぶきをあげており、手前の滝はそれよりも水量が少なく穏やかだった。水が起こした風であたりの気温は低くわずかに肌寒い。
「アルトさんはそちらの穏やかな方を使ってください。私はこちらを……あ、腰巻きはもう少ししっかり結んだ方が良いですよ」
「あ、ありがとうございます。あの、他にアドバイスはありますか?」
 アルトが尋ねるとミードはほんの少し考えるような表情を浮かべた後小さくポンと手をうち、ニッコリと微笑んで言った——しっかり呼吸してください。
 しっかり呼吸をしろとはどういう意味だろう。アルトはそれを問おうとしたが、ミードはすでに奥の滝に向かって歩き始めていた。まぁ、やればわかるだろう。
 アルトは滝のかたわらに立ち、ゆっくりと呼吸を整える。奥の滝の方を見るとミードはすでに滝の中におり、激しい水の中で真っ直ぐに背を伸ばし静かに目を閉じていた。その表情はあまりよく見えないが、苦痛を感じているようでもなく口の端に微かな笑みをたたえたような表情を浮かべている。
なるほど、あのようにやればよいのかと理解したアルトは、意を決して滝の下に立つ——。
「うごっ!」
 瞬間、体中にのしかかってきた水圧に押しつぶされそうになり思わず声が出た。息を吸おうとすると口や鼻から容赦なく水が入り込みそうになり、水を飲まないため慌てて息を止める。なるほど、しっかり呼吸しろとはこういうことだったのか。
 アルトは水を吸い込まないよう顔を下に向け、水圧で崩れかけた体勢をゆっくりと立て直す。冷たい水が背中や肩をとめどなく打ち続け、肌の上で弾けてじりじりと痛む。体力と体温は容赦なく奪われ、まっすぐ立って呼吸するのが精いっぱいだった。
 しばらくすると体が次第に慣れてゆき、水の冷たさや痛みが薄れるような気がした。その一方で感覚は次第に研ぎ澄まされ、水が打ち付けるリズムや呼吸、心臓の音がクリアに感じられるようになる。無意識に剣を振るっていたあのときの感覚に似ている。世界と自分が一体になったような果てしなく広がる感覚と、自己が極限にまで収縮し、ただここにある点のような感覚。矛盾した二つの感覚が表裏一体となり——。
「あっ」
 水圧で腰巻きがずり下がったことに気を取られた瞬間、感覚と意識が急激に引き戻されそれまで意識していなかった水圧に押しつぶされそうになる。思わずよろけて足元にたまった水の中に沈みそうになり軽い恐慌状態に陥った彼は、四つ這いの姿勢で滝の下から避難した。
「はっ、はっ、はっ……」
 心臓が激しく脈打ち呼吸が乱れる。判断が遅ければ浅い水の中で溺れていたかもしれない。彼が身震いしたのは体が冷え切ったせいだけではなかった。
アルトは滝の前に座り込み乱れた呼吸を整えながら天を仰ぐ。もう少しで何かがつかめそうだったというのに、またしても肝心のところで集中が途切れてしまった。悔しい。どうすれば集中を途切れさせることなく、あの研ぎ澄まされた感覚を維持できるのだろうか。
 奥の滝に目をやると、まるで彫像か何かのように寸分たがわぬ姿勢のまま滝に打たれているミードが見えた。アルトが使っていた滝よりもはるかに水量が多く激しい流れの中にいながら、なぜあれほど苦も無く立っていられるのだろうか。
 息をひそめ、極力足音を立てないよう注意を払いながらそっと近づく。岩肌を滑るように落ちていた手前の滝とは違い、奥の滝は突き出した岩から真っ直ぐに落下する構造になっていた。そのため滝の裏側にはいることができ、アルトはミードの全身をつぶさに見ることができる。
 自分に比べるとはるかに細い体は力が込められているようにも見えず、ごく自然に立っているだけ、むしろリラックスしているようにすら見えた。わずかに上下する胸の動きは穏やかで、立ったまま寝ているのではないかという錯覚すら覚える。いや、もしかすると気絶しているのではないか。
 ふと不安になり、アルトは思わず手を伸ばし——突然手首を掴まれ、すさまじい力で水の中に引き込まれる。
「わっ! なっ……はぐっ!」
 驚愕の叫びをあげた次の瞬間、体中に水圧が重くのしかかり、前後不覚になりながら強烈に引きずり込まれる。体が抱き寄せられ、水の中でくるりと反転すると、上半身だけが滝の裏側に通り抜けた状態であおむけに倒れ込んだ。否、彼は濡れた石の上に組み敷かれていた。
「ミ……ミード殿、申し訳ございません。邪魔をする気はなかったのです」
 濡れた闇の中でアルトは謝罪する。滝を背にしたミードの顔は全く見えず、ただ動く口だけが見えた。何か言っているようだが、激しい水音で何を言っているのかわからない。
「あの、何を言っているのか」
 そう言いかけたアルトの鼻腔を甘い香りがくすぐる。立って歩いた時は全く気付かなかったが、岩の隙間から白い水仙のような花が無数に咲き乱れ、頭の奥がしびれるような強く甘い香りを放っていた。
「花が咲くんですよ。月が満ちる夜、真っ白な月下香が」
「ミ……ミード殿?」
 ミードの顔が静かに近づいたかと思うと、熱を帯びた滑らかな声でささやく。普段の穏やかで静かなミードからは想像できない艶やかな声。
「この香りを嗅ぐと、自分が抑えられなくなるんです。体が火照って、胸の奥が疼いてしまう。私は今日、その昂り鎮めるためここに来ました。あなたを連れてくるつもりはなかった」
「怒っているのですか? 私が邪魔をしてしまったから」
「いいえ」
 細く長い指がアルトの首筋をそっと撫で、鎖骨をなぞり、胸の上を滑る。胸の最も敏感な部分を触れるか触れないかの力加減で弄ばれ、思わず熱い吐息が漏れた。冷たい水の中に浸かっているというのに下半身が熱く疼き、微弱な電流のような快感が背中をゆっくりと這い上がる。
「でも、あなたがいけないんですよ。私に触れようとしたから……。だから、あなたに鎮めてもらわないと。私のこの昂りを」
「待って……待って下さ」
 その言葉を言い終える前に柔らかい唇が声を奪った。熱い舌が口内に滑り込み意志を持った生き物のように妖しくうごめく。首の後ろが溶けるような快感がジワリと広がり、体の奥がさらなる快楽を求めて熱を帯びた。無我夢中で舌を絡ませ、腕を伸ばして細い腰を抱く。荒々しい呼吸と共に唇がいったん離れ、互いに求めあうように再び重ねられる。
「ミード殿、これ以上はもう……お願いですから……」
「お願いですから……何ですか?」
 何度目かの口づけのあと、アルトは熱い喘ぎの間から絞り出すように言う——お願いですから。その言葉の次を紡ごうとして、はたと正気に戻る。言葉の続きを促したミードの声は、あの熱を帯びた声ではなく、いつもと同じ穏やかで静かな声だったからだ。
「えっ、あっ、そのっ……ミード殿?」
 相変わらず表情は見えなかったが、ミードはくすくすと声を立てて笑っている。その瞬間、体中を羞恥が駆け回り、顔が真っ赤に燃え上がるほど熱くなった。
「すみません。つい調子に乗って、悪い冗談を」
「じょ、じょじょ、冗談! 冗談だったんですね! ああ、驚いた、何が起きているのかと……ああ、驚きました! 冗談だったんですね!」
 二人は互いの体を離しそろそろと水の中から這い上がるとほんの少し距離を開けて横並びに座る。胸はまだ高鳴り体には快楽の余韻が残っていたが、荒れた呼吸を整えているうちに少しずつ静まっていった。
「アルトさん、本当に申し訳ありませんでした」
「いえ、自分の方こそ、すみません。ミード殿の滝行を邪魔してしまいました」
「ふふ……では、お互い様ということにしておきましょう。ところで、初めての滝行はどうでしたか? なかなか難しいでしょう?」
「そうですね。とにかく水圧と息苦しさがすさまじかったです。ですが、ある程度慣れてくると感覚が研ぎ澄まされるような不思議な心地がしました」
「なるほど。初めての方は立っているのがやっとという状態ですので、アルトさんは筋がいいのですね」
 ミードに褒められ、アルトはまんざらでもない気分だった。何度か繰り返していれば、さらに自分を高められそうな気がする。過酷な環境の中でも動じない心と体を手に入れられればもっと——。
「あの、また来てもいいですか? このまま続けていれば、何かつかめそうな気がするんです」
「ええ、もちろん。ここは私の場所というわけではありませんからね。ただ……」
「ただ?」
「満月の夜だけは、お気をつけください」


 オレンジ色の閃光が空を走り、アルトはそれを目で追う。沈みゆく太陽を背にそれは真っ直ぐとびかかってきた。細く空気を吸い込み風の動きに乗せるように剣を振るう。切っ先が触れる前に光は軌道を変え、側面から再び猛然と襲い掛かってきた。脳の中で見えていた機動と速さで。
アルトは全てを知っていたものの動きで舞うように体をひねると、よけきれない絶妙なタイミングで斬撃を繰り出す。
「ミードさーん! このページのことで質問があるんですけどー!」
 シャンパンの精霊、ルイが腕に本を抱えて渡り廊下をパタパタと走っていく足音と声が耳に飛び込んだ——次の瞬間、足がもつれて剣が空を斬り、アルトは受け身すら取れないまま地面に倒れ伏す。
「ちょっとぉぉ! 昨日より悪くなってるじゃなぁぁい!」
 背中に重い衝撃が走り、押しつぶされたような声が漏れた。
「先輩……重っ……!」
「なぁんですってぇぇ?」
「すみません! すみません!」
 うつぶせに倒れたまま後頭部にくちばしが容赦なくたたき込まれる。鈍器で殴りつけるような音が訓練場に響き渡り、目の前がくらくらした。
「あの、ピオレさん……そのくらいにして……」
「ピオレさんっ、僕が悪いんです。訓練中に大きな声を出したから」
 騒ぎを聞きつけたミードとルイがアルトの背中に乗ったピオレを止めに入る。後頭部に打ち込まれていたくちばしの乱舞が止み、アルトは心底ほっとした。
「あらぁ、ミードさんにルイ君。大丈夫よ、アルトは慣れてるから。それに、ルイ君はちっとも悪くないのよ」
「でも僕、アルトさんが痛そうなの、見るのが辛くて……」
「ルイ君……あなた、優しいのね」
 そういうとピオレは感動したように目を潤ませ、オレンジ色の翼をはばたかせてアルトの背中から飛び立つ。呼吸が楽になって一息ついたアルトは、ついうっかり禁句を口にしてしまったことを後悔した。
「そうだ! ルイ君、私の部屋にいらっしゃい。美味しいお菓子があるのよ」
「いいんですか? 嬉しいなぁ」
 そういうとルイはピオレと一緒に訓練場を後にする——ほんの少し困ったような苦笑を浮かべて肩越しに振り返ってから。
「アルトさん、もう起きていいですよ」
「面目ない……」
 許可なく起き上がるとますます怒りを買いそうだと判断して地面に倒れ続けていたアルトは手をついてゆっくりと体を起こす。体中についた大量の土を手で叩き落としてから地面にドカリと胡坐をかいて座った。
「また集中が途切れてしまった……」
「大変ですね、訓練も」
 深々と溜め息をついて悔しげな表情を浮かべるアルトの肩を手で払いながらミードは言う。その表情はいつも通りの穏やかな笑顔で、まるで昨夜の出来事などなかったかのようだった。
「生きている限り心は揺れ動くもの。どんなに抑えようとしても抑えることはできません。私たちにできることは動いた心に振り回されないこと。ただそれだけなんです」
「……自分にはまだ難しいです」
「それもまた、訓練ですよ」
 そういって低い声で笑うミードを見ていると、アルトは何とも言えないモヤモヤとした気持ちになった。今日、アルトの集中が途切れてしまったのはルイの声が聞こえたからではない。その声が呼んでいたのがほかならぬミードだったからで、その名を聞いた瞬間、昨夜の出来事が脳裏をかすめたからだ。
 しかし彼はどうだろう。普段通り話し、いつもと変わらぬ優しさで肩に触れ、超然と微笑んでいる。アルトの気などまるで知らないとでもいうように。
「きれいになりましたよ。さて、私は失礼しますね」
「ミード殿」
 アルトは立ち去ろうとするミードの手を掴んで引き留めた。このままではなんだか悔しい。乗り越えなければならない。揺れ動く心に振り回されてしまう自分自身を。
「今日も、行っていいですか?」
「もちろんですとも。昨夜言った通り、あの場所は私の場所というわけではありませんからね」
 やはり彼は憶えている。昨夜のことを忘れてしまったわけではない。憶えていてなお、こうして何もなかったように……。
「行きます」
 アルトの真剣なまなざしに見つめられながらミードは静かに微笑む。長いまつ毛に縁取られた青い目を細めて優美に、どこか楽し気に。

「では、今宵滝行で」