たまご

 太陽は春の気配をおび、日差しは柔らかく心地よい。
車一台分の幅しかないクネクネとした道を右へ左へ、僕はゆったりとハンドルを切る。
助手席にいるのは来月結婚する予定の恋人、陽子だ。
「あ、牛!」
陽子は右前方を指差した。白と黒の乳牛が、緩慢な動作で草を食んでいる。
「ああ、山下牧場って言うんだよ。校外学習で乳絞りをやったっけ……。」
小学生の頃、間近にみた牛の大きさを思い出しながら、僕は呟く。
 僕たちは式の段取りを話し合うため、僕の生まれ故郷に来ていた。
これまでに何度も足を運んでいたけれど、ほとんど日帰りだったため、あまりゆっくりと時間を過ごす暇がなかった。
今週は運良く、週末の休みと祝日が繋がったため、三連休のうち二日を、僕の田舎でゆっくりと過ごそうということになった。
陽子は都会育ちで、田舎というものがない。ここに始めて来たとき、瞬時に気に入ってしまったのだ。
 やがて視界が開け、左手に小さな川が見える。昔は砂利と砂だけの小さな河川敷だったのが、今では綺麗に護岸されている。
小さな男の子が二人、ズボンの裾をたくし上げて水の中に両手を突っ込んでいた。
「何してるのかしら。」
「ああ、魚がいるんだよ。降りてみる?」
 僕はその少し先にある橋の袂に車を止めた。
陽子はまるで子犬のように車から飛び出すと、短い草の生えた土手を滑るように降りる。
「転ぶなよ。」
僕が車に鍵をかけながら言った。陽子はすでにせせらぎに手を浸している。
 足元に注意しながら川原に降り、橋を見上げる――赤い手すりがついたコンクリート橋は、昔と変わらず水に影を落としていた。
陽子の隣にしゃがむと、水が早春の光で輝き、ダイヤを散りばめたように見える。
「そういえば、この辺りだったな……。」



「ホントだよマッキー。橋の下にあったんだ。あれは絶対、恐竜の卵だよ!」
 ヤスベエは秘密基地に来るなりそう言った。余程急いできたんだろう。ランニングシャツの胸元が汗でびっしょりと濡れている。
マキオはさっき捕まえたばかりのカブトムシを、虫かごから薄汚れた水槽に移し変えようとするてを止め、僕のほうを振り向いた。
僕とマキオとヤスベエは同じ小学校の同じクラスの友達。
まぁ、子供が少ない田舎の学校だから、クラスは一学年につき一つ、それも多くて十人程度だから、同い年のやつはみんなクラスメートなんだけど。
僕たち三人は幼馴染みたいなもので特に仲が良く、休みの日や放課後はほぼ毎日、秘密基地――学校の裏手にある伐採林の奥にある廃屋で過ごしている。
その習慣は夏休みでも例外ではなく、宿題もそこそこにやっつけては、虫かごや網を持ってここに集合というのが日課だった。
 この日、夏休みも中盤を迎えようとしていた。
親の目を盗んで隠しておいたマンガも何度読み、蝉も捕り飽き、アイスやお菓子を買う軍資金も心もとなくなる時期……つまり、長くて暑い、怠惰な生活に飽き始める時期。
 僕はキヨシの方に目をやる。彼は日焼けした顔を上気させ、まるで全身から湯気が立っているかのように見えた。
「ホントだよ、キヨシ。黒くてこのぐらいの大きさだった。」
彼は両手で楕円形を作る――長さ十五センチくらいの楕円形。恐竜の卵だなんて信じられないけれど、ただの石ころとしても十分大きい。大きな卵形の石……秘密基地の財宝に相応しいと思った。
「早く拾いに行かないと、誰かに取られちゃうよ!」
 マキオは水槽にきっちりと蓋をすると、大きく頷いて立ち上がる。拾いに行こうという合図だった。

「ほら、あれだよ。」
 ヤスベエの指差した先は、橋の下の藁や木の枝が固まって浮かんでいる所だった。
僕はその暗がりに目を凝らす――キラリと何かが光った。
「よし、行ってみよう。」
マキオにも何かが見えたらしい。彼は橋に向かって段々狭くなる川原を歩き始めた。
 橋の下はひんやりと涼しく薄暗い。ほんの少しの間、明るさに目が追いつかなくなる。
ようやく焦点が合わせられるなると――確かに、ヤスベエの言った「恐竜の卵」が、川岸より少し離れたところに沈んでいた。
表面がデコボコした卵型の物体は緑がかった黒色。例えるなら、アボガドを一回り大きくような感じのものだった。
「石には見えないな……。」
 マキオが言った。
僕も最初は、ヤスベエが石を見間違えただけだと思っていたけれど、こうして見てみると石には見えない。
「どうやって拾う?」
「木の棒でこっちに転がせないかな。」
 僕は水に浮かんでいた木の棒を拾い上げて、腕を精一杯伸ばす。どう見ても届きそうにないので、水をかき回してみたが、こちらに転がってくる気配はない。
「だめだ。全然動かないよ。」
マキオは腕を組んで唸ると、ヤスベエの方を向いて言った。
「ヤスオ、ズボン脱いで拾いに行けよ。」
「えー、やだよ。女子が通るかもしれないじゃん。」
「おいおい、お前な――」
「じゃあジャンケンにしよう。」
 危うく口喧嘩になりそうな雰囲気になったので慌てて間にはいる。二人は「そうだな。」といって頷いた。
ヤスベエは気づいていないけど、マキオは必ずグー、チョキ、パーの順番で出す。
今の雰囲気だと、マキオが負けたらきっと不機嫌になるから、マキオに勝たせてあげないと……。まったく、気を使うのも大変だなぁ。
「それじゃあ行くぞ。」
「じゃーんけーん」
「ほい!」
 結果はグー、グー、パー……ヤスベエの一人勝ち。仕方ないので引き分け勝負にわざと負けた。まったく、ヤスベエのヤツちょっとは空気読めよな……。
僕はズボンとサンダルを脱いで川の中に入った。水はひんやりと冷たく、とても気持ちがいい。
足元に注意しながら進む。それが沈んでいたのは思っていたより深い場所で、僕は腰まで水に浸かっていた。シャツも脱ぐべきだったなと後悔する。
 落としてしまわないように気をつけながらそれを拾い上げた。ずっしりとした重みはあるものの、石にしては軽すぎる。
僕は川から上がると、川原の草の上にそっと置いた。太陽の光を受けて、表面がてらてらと輝いている。
「やっぱり石じゃないみたいだな。」
「だろ? これは絶対恐竜の卵だよ。」
 濡れたパンツを絞っている僕を尻目に二人は喋っていた。お礼の一言くらい言って欲しいなぁ……。
とりあえず、気持ち悪いけれど濡れたパンツの上からズボンをはき、二人の間に加わる――僕が川から拾い上げたそれは、何度見ても石のようであり、卵のようでもある。そう、石の卵といった感じだ。
「とりあえず、基地まで持っていこうよ。」
 二人が頷いたので、僕は再び石の卵を抱える。石の卵はほんのりと温かい気がした。
さっきは全然そんな風に思わなかったのに……きっと、太陽の熱で温まったんだろうと思った。

「よし、準備できたぞ。」
 僕たちの中では一番器用なマキオが有り合わせの板と釘で小さな箱を作り、ヤスベエは自宅からたくさんの藁を抱えてやってきた。
マキオの箱にヤスベエがたっぷりの藁を敷く。石の卵専用のベッドが完成というわけだ。 僕はまるで、大切な赤ん坊を寝かせるようにそっと石の卵を置く。
「すごいな、俺たちの宝物だぞ!」
「これ、本当に卵なのかな。だとしたら、何か産まれるんじゃないか?」
 僕たちは興奮気味に話し合った。これがもし卵だったら何が産まれて来るのか。温めたほうがいいのか。何日くらいかかるのか……。とにかく、これから毎日様子を見にこようという結論だけが残り、その日は藁を被せただけで帰ることにした。

 それから毎日、僕たちは秘密基地で石の卵を眺めた
石の卵はいつも濡れたような光沢を放ちながら、箱の中で静かに眠っている。全く変化のないまま時間が過ぎた。
「やっぱり、ただの石なんじゃないか?」
全員が薄々そう考えていた事に気づき、僕たちは落胆する。
それ以来、ヤスベエとマキオは石の卵に対する興味を無くしてしまったようで、それを眺めているのは僕一人になってしまった。
 石の卵を拾ってから五日目、僕はある変化に気づく。
「ヤスベエ、ちょっと見てみろよ。」
僕が呼ぶとヤスベエは隣に膝を付いて箱の中を覗きこんだ。
彼は石の卵を一目みると、基地の外で蝉を探していたマキオを呼ぶ――「マッキー! 大変だ!」
マキオは手に持っていた虫取り網を放り投げて僕らのそばまで来ると、大きくため息をついた。
「なんだよ。誰か怪我でもしたのかと思った。」
「違うんだよ。ほら、これ……。」
 ヤスオが手で藁をどける。真っ白に変色した石の卵が現れた。
マキオは目をまん丸にして驚いくと、すぐに膝をついて卵にそっと触れる。――「なんだか熱いぞ。」
僕とマキオも一斉に卵を触る。確かに、石の卵は温かかった。
「腐ったんじゃないのか?」
「でも、変な匂いはしない。」
 マキオとヤスベエが言う。
僕は、次第に高まる胸の鼓動を抑えながら言った。――「産まれるんだ。」

 その日、僕たちは時間も蝉取りも何もかも忘れて、卵が割れる瞬間……生まれてはじめて見る生命誕生の瞬間を見逃すまいと、箱の前にじっと座って時を過ごした。
やがて空が茜色に染まる頃、石の卵に小さな亀裂が走った。
「きた!」
「産まれる!」
 僕たちはそれぞれ拳を握り締め、石の卵を凝視する。
亀裂は徐々に広がり、やがて――。
「産まれたー!」
 僕は歓声を上げた。ヤスベエやマキオも、互いに手を取り合って喜び合っている。
卵から生まれてきたその生き物は白い翼を広げると、悠々と顔を上げた。産まれたばかりだというのに聡明な輝きを持つ瞳をした、大きな鳥だった。

 僕たちは真っ白い外見から、そいつを「シロ」と名づけることにした。
シロは産まれてすぐ歩き始め、箱から抜け出すと地面をぺたぺたと歩き回る。鳥なのに飛ばないのは、きっと鶏の仲間だからなんだろう。
 僕たちはシロを抱き上げると基地の外へ飛び出し、雑木林の中を縦横無尽に駆け回った。
艶々とした葉っぱ、名前も知らない花、太いクヌギに停まっている虫……。僕たちの知っている世界の全てを、シロに全部見せてやろう。
 ふと気づいたとき、僕たちは見知らぬ場所に立っていた。
「どうしよう、道がわかんなくなっちゃったぞ。」
ヤスベエが呟くと、マキオが静かに頷く。自分も分からないという意味だ。
懇願するような表情の二人に、僕は首を振った。僕にもわからない。
あたりはすでに薄暗く、青みがかった紫色の空に白い月が浮かんでいた。
「とりあえず、分かるとこまで戻ってみよう。なんとかなるよ。」
 マキオはそういうと、元来た方へ歩き始める。
僕はシロを抱き上げると、マキオの後の後へついていった。
しばらくの間黙って歩き続ける。マキオは本当に来た道を歩いてるんだろうか? きっと違うと思う。ヤスベエもきっとそう思っている。いや、もしかするとマキオ本人もそう思っているかもしれない。
けれど、僕たちは歩き続けた。歩いていないと不安だったから。
 あたりは段々暗くなって行き、やがて月明かりだけが頼りになった頃、ついにヤスベエが座りこんだ。
「ヤスオ、立てよ。帰れなくてもいいのか!」
「もう疲れたよ。それに、マッキーだって道わかんないんだろ?」
マキオの表情が歪む――やっぱり、マキオも道が分かっていなかったんだ。
僕もいい加減疲れていたのでヤスベエの隣に座る。やぶ蚊が耳元を飛んでいった。
「ちょっと休憩しよう。なにかの本で読んだけど、こういうときは動かずに、見つけてくれるのを待ったほうがいいんだって。」
僕がそういうと、マキオは僕たちの前に膝を抱えて座った。
 シロを地面に下ろしてやる。暗い林の中でもシロの姿だけははっきり見えた。
シロは僕たちの真ん中に座ると、黄色い目で僕たちの顔を見回す。まるで、僕たちの不安を感じているように。
 咳き込むような音と、鼻をすする音が聞こえる。
膝に顔を埋めたまま、マキオが泣いていた。
「ごめん。俺、余計迷っちゃったかもしれない。ごめん。」
マキオのしゃくりあげる声が大きくなると、つられるようにヤスベエまで泣き始める。僕は一緒に泣いたら、みんな不安に押しつぶされてしまうと思うと泣けなかった。
 ただ、二人をどうすればいいか、これからどうすればいいかは思いかず、途方に暮れる。
シロは細い首をもたげ、僕たちを見回すと、その丸い目に申し訳なさそうな表情を浮かべた――表情? 鳥に?
僕は半分寝ぼけたような頭を少しでもスッキリさせようと思い、空を見上げる。光が、西から東へ横切った。
 光が木陰の向こうへ消えたとき、シロがスッと立ち上がった――まるで、何かを見つけたように。
「シロ?」
僕が呼びかけると、シロは月明かりでキラキラと光る金色の目を僕に向け、小さく首をかしげて歩き出した。ついて来いとでも言わんばかりに。
「ヤスベエ! マキオ! 行こう!」
 二人の背中を叩いた。
目を真っ赤に泣き腫らした二人が僕の顔を見上げる。それに応えるように、僕は笑った。多分、人生でも数えるくらい頼りがいのある笑顔で。
 よろよろと立ち上がろうとする二人を手伝い、シロの方に目を向ける。シロは、僕たちの数メートル先に立ち止まって、こっちを見つめていた。
シロにはわかっている。僕たちの不安、恐怖、そして、そこから抜け出す道を。僕はそう、直感した。
 すでに足元の暗い道を注意深く、シロの後を追って歩く。こんなに暗いところで、どこかも分からない場所で怪我でもしたら大変だ。そういう思いが、僕たちの歩みを鈍らせる。
シロは月明かりを浴びて、白い羽毛をキラキラと輝かせながらゆっくり歩き、時々立ち止まって振り返っていた。
 実際は十分だったのか、数時間だったのか。とにかく、僕には永遠と思えるほどの時間を歩いたとき、木々の隙間から黄色がかった光がチラチラと揺れているのが見えた。
「キヨちゃーん!」
「ヤッちゃーん!」
「マキオくーん!」
 僕たちの名前を呼ぶ声。
光の方に近づくにつれ、その声はどんどん大きくなり、やがて――。
「いた! 増山先生! いましたよ! 小林に山田……井上もいます!」
 黄色いライトが僕たちの顔に当てられる。思わず目を閉じてしまったけれど、その声は用務員のおじさんの声に違いなかった。
周囲にざわめきと、たくさんの足音が響く。無数に乱舞する光と、走ってくる人影。
「お母さん!」
 ヤスベエが駆け出す。マキオはその場に立ち尽くて泣いた。
僕はただ、不安と緊張が一気にはじけとんで力が抜け、ぺたりと座りこんでしまった。 よかった。僕たちは助かったんだ。
 シロがここまで案内してくれなければ、僕たちはどうなったんだろう――シロを撫でてやろうと、僕は振り返る。
「シロ……?」
暗い闇の中でもぽっかりと浮かんで見える小さな体は、忽然と姿を消していた。



「結局、それ以来シロは消えてしまった。次の日もその次の日も、僕たちはシロを捜したんだけど、どこにもいなかった。そうこうしてるうちに夏休みも終わって、学校が始まった。」
 陽子は透明な光を持つ黒い瞳で僕を見上げ、まるで無垢な少女のように話を聞いている。
丸っこい目がほんの少し、シロに似ていた――本人には言えないけど。
「その年の冬、雑木林がなくなってね。僕たちの秘密基地も跡形なく消えた。ほら、あそこに見えるマンション。あのあたりが雑木林だったんだ。」
 僕が指差すと、陽子は立ち上がって川の向こうに目をやる。
少しくすんだ灰色の壁が、早春の光の中で眠っているように見えた。
「ねぇ、シロってなんていう種類の鳥だったの?」
「それが、変なんだ。」
 陽子は小さく首を傾げる。――「図鑑に載ってなかったってこと?」
僕は首を振ると、足元に転がっていた小さな石を投げる。ポチャンという音と、小さな水飛沫が上がった。
「その時一緒に迷った井上と山田……まぁ、マキオとヤスベエなんだけどさ。この前、同窓会で久しぶりに会ってね。終わってから飲みに行ったんだ。その時、シロの話になったんだけど……。」
少し冷たい風が吹いた。花の香りが薄っすら漂っている。
「僕は、シロは鳥だと思ってた。ヤスベエはゲームに出てくるようなドラゴン、マキオは猫だって言うんだ。」
「それって……。」
「そう、僕たちはみんな同じシロを見てたけど、そのシロはみんな違っていたってわけ。変な話だろ?」
 陽子は小さく頷いたあと、もう一度川のほうに視線を戻し、やがてクスクスと笑い出した。
「マキオ君って面白いのね。猫が卵から産まれるわけ……。」
彼女の言葉は最後まで続かなかった。川のほうをじっと見つめている。
「どうしたの?」と聞くと、彼女は川を指差す。


アボガドを一回り大きくようなものが、穏やかな水底に沈んでいた。


    終わり