六花の朝

外に出ると地面には雪がうっすらと積っていた。暦の上では春といわれているが、朝晩の冷え込みはまだまだ厳しい。雪の上に歩を進めると、新雪を踏みしめる心地よい感触がした。
私は自分の足音と呼吸音を聞きながら、もう一度夢について考える。詳しい内容は思い出せないが、明け方に見る夢はいつも同じ——膨大な時間に刻まれた、ほんの一瞬の輝きと、そこにいたあの人——あまりにも長い時が経ちすぎて、顔すら思い出せなくなったあの人のことだ。 「メブミード」 また誰かに呼ばれた気がして私は立ち止まる。微細な氷の粒になって後方に流れていく息を追いかけるように振り向いたが、そこには誰の姿もなかった。 やはり気のせいか。 再び前を向こうとして足元に視線を落としたとき、雪の中に暗い赤紫色の花が咲いていることに気づいた。花は一輪ではなく、列をなして咲いている。視線でたどってみると、それは私の足跡を追うように咲いていることが分かった。 その場にしゃがみ、花にそっと手を添える。甘い香りがするその花の名はコスモス・アトロアサンギネウス。色合いやその香りの特徴から「チョコレートコスモス」と呼ばれている花で、本来は夏から秋にかけて咲く花だ。 一体いつからだろう。感情が大きく動くと周囲に花が咲くようになったのは。昔はそんなことはなかったのに。 一日と経たずに枯れてしまうであろう花を指先でそっと撫でながら、声を出さず唇だけを動かして言う——ごめんなさい。 私はゆっくり立ち上がると、今度は極力何も考えないよう努めながら歩を進める。何も考えなければ感情が大きく動くことはない。そうすれば、わずかな時間しか生きられない悲しい命を生み出さずに済む。