みんなで卒業しませんか?


 駅から出ると、夏に向かって勢力を伸ばし始めた紫外線が、容赦なく肌を焼く。
あたりは背の高い木々が立ち並び、くっきりとした影を地に落としている。
「ふ……あー。」
 僕は伸びをすると、大きく息を吸い込んだ。――緑の香りが、鼻腔をくすぐった。
ミチルは始めてきた場所に両目を輝かせ、ソーダさんは懐かしむように目を細めていた。
「ソーダさんはここに来たことがあるんですか?」
ソーダさんはゆっくり頷く。
「ええ、四十年ほど前になりますが。」
そして彼は、ミチルの手を握ると、緩やかな山道を登り始めた。

 道は右へ左へ曲がり、木々は少しずつ深みを増していく。
坂は急勾配とまでは行かないものの、体の小さなミチルには少し厳しいらしく、はあはあと息を切らしていた。
 途中、朽ちかけたような木のベンチがあったので、ソーダさんはミチルをそこに座らせた。
「少し休憩しましょう。ちょっとキジ打ちに行ってきます、宵待ちさん、ご一緒にいかがですか?」
ミチルは顔を上げると、肩で息をしながらソーダさんに問いかける。――「キジ打ち?」
「レディの前で言うのは憚られますなぁ。その、つまり……トイレのことですよ。」
「なーんだ、おしっこかー。」
「これ、女の子がはしたないですよ。さ、宵待ちさん。行きましょうか。」
けらけらと笑うミチルを笑いながらたしなめると、ソーダさんは僕に目配せをした。
なにか話があるみたいだ。
 僕は彼の後について獣道を進む、しばらく行くと地面が少し窪んでいる場所があった。
ミチルの姿は背の低い木の陰になっていて見えない。
ソーダさんは、くぼみ足を投げ出す形で地面に座ると、隣を軽く叩いて、僕に座るよう促した。
「私ね、やはりミチルさんは置いていくべきだと思うんです。」
 僕が座るのとほぼ同時に、ソーダさんは言った。僕が予想していた通りの台詞。
僕は黙って頷くと、手元に落ちていた石を拾って、足元に広がる原生林に向かって投げた。
「あの場所にいれば、誰かが通って彼女を見つけてくれます。私たちはこのまま、ここで卒業してしまいましょう。」
 僕が頷くと、彼はゆっくり立ち上がり、カバンの中からロープを二本取り出した。
僕も立ち上がり、胸ポケットから薄い封筒を取り出す――田舎に住んでいるたった一人の身内、僕の可愛い妹にあてた手紙だ。
ソーダさんが悠々とした手つきで木の枝にロープを結びつける、その姿に、僕は微かな胸の痛みを覚えた。
妹は一人ぼっちになってしまわないか?
最後に、電話で話したのはいつだった?
 二本のロープが、一端を輪の形にしてぶら下っていた。
「宵待ちさん、始めましょう。」
湧き上がってきた後悔を胸に押し込んで、僕はロープに首を通す。
ソーダさんも、足元に白い封筒を置くと、ロープに首を通した。
「いっせーのーでで、この窪みに飛び降りるんですよ。」
僕はゴクリと唾を飲みこんで頷く。
「行きますよ。いっせーのーでっ!」
 両足が地面を蹴った。
首に圧力がかかり、目の前が真っ赤に染まる。
そして……。
ミシミシ! バキッ!
「うわぁぁぁっ!」
 ロープを結び付けていた枝が、二人分の重量に耐え切れずに折れる。
僕とソーダさんはお尻から地面に墜落し、おまけに、折れた木の枝に頭をぶたれた。
「ソーダっ! 宵待ちっ!」
 騒ぎを聞きつけたミチルが、がさがさという音を立てながら獣道を掻き分け、僕たちの元へ走りよってきた。
首のロープを外し、窪みから這い上がった僕たちを見下ろす彼女の目には、大粒の涙が今にも零れ落ちんばかりに溜まっている。
「酷いよ。三人で卒業するって決めたじゃない。なんであたしだけ置いていくのよ!」

 あたしの両親は共働き、兄弟はいない。
毎朝学校に行くときも一人、帰ってからも一人、家ではテレビをみたり、マンガを読んだり、インターネットをしてる。
お母さんはいつも、晩の九時ごろに帰ってくる。そして、あたしの顔を見て言うのは「勉強しなさい」だけ。
お父さんは日曜の朝、時々見かけるけど、もうずっと話なんかしてない。 学校に友だちはいない。毎日が一人、朝からずっと一人ぼっち、一年中ずっと……。
こんな毎日、本当にうんざり。お父さんもお母さんも、学校のみんなも、あたしなんていなくても平気なんだ。
 インターネットの中では寂しくないけど、なぜかみんな、あたしの歳を聞くと離れて行っちゃう。なんで? あたしが子供だから?
宵待ちとソーダは、駅で会ったときに逃げ出したりしなかった。嬉しかった。
卒業するの、一人だと怖いけど、三人一緒なら平気だって思ったのに……。

 ミチルは泣きながらポツリポツリと、自分の気持ちを話した。
僕は何も言えずただ項垂れて、ソーダさんはミチルを抱きしめながら「ごめんよ、ごめんよ。」と何度も呟いていた。
こんなに小さい体に、大人と同じくらい――いや、もしかすると、選択肢の多い大人以上に、重く苦しい苦悩と絶望を抱いているのかもしれない。 僕たちは、ただ僕たちの勝手な都合。ミチルの言う「大人の都合」で、彼女だけをのけ者にしようとした。
それが、彼女にとってどれだけ惨いことかも考えずに……。
 なれない山道と泣き疲れたせいか、ミチルは一通り感情を爆発させた後、ぐっすりと眠り込んでしまった。
日も傾きかけてきたことだし、僕たちは先を急ぐことにした――僕たちは卒業するためにここに来たのであって、遭難するために来たのではない。 ミチルを背負って、ソーダさんの後について歩く。妹を背負って歩いた、田んぼのあぜ道を思い出した。
「宵待ちさん、重くないですか?」
「平気ですよ。僕、バイトで引越しやってたんで、力はあるんですよ。」
むしろ、ミチルの体重が背中に心地よく感じるくらいだ。
「宵待ちさんは、なぜ卒業を?」
「よくある話ですよ。一旗あげようと田舎から上京したのはいいものの、仕事は見つからずあっさり挫折。派遣のバイトで食いつなぐだけの毎日に嫌気が刺しちゃったんですよ。」
「そうですか……。」
 しばし無言で歩くと、急に山道が開ける。
古い日本家屋が一軒、木製の看板を掲げていた。――「民宿 志津元」
「いやいや、新婚旅行できたときはもっと近くだと思ったのですが……あの頃は若かったからでしょうなぁ。ここが今日の宿です。ミチルさん、つきましたよ。」
 ミチルが目を覚ました気配がしたので、僕は彼女を地面にそっと下ろす。
大きな伸びをして目を擦ると、目の前の民宿をみて微笑んだ。
「すごーい! こんなトコ、始めて来た! 宵待ち! ソーダ! 早く行こっ!」
 よかった、もう怒っていない……と、安心する暇もなく、僕とソーダさんはミチルに引っ張られていった。