ネズミ

「おい! ネズミ!」
 昼食時間の後、教室で本を読んでいたネズミを、呼び止めたのは宮脇だった。
成田さんは美人だけあってファンが多かった。宮脇もあわよくば成田さんとお近づきになりたいという手合いだ。
「え……」
ネズミが顔を上げる。汚れた眼鏡のレンズが、白い光を反射した、その時。

ドガーン!!!

 すさまじい音を立てて、ネズミが机や椅子ごと床にひっくり返った。
身長180はあろうという大柄な宮脇が、小柄なネズミの胸を思いっきり蹴ったのだ。
それまで騒がしかった教室が、一瞬にして静まり返る。
「お前がやったんだろ!」
起き上がろうともがいているネズミに向かって、宮脇は叫んだ。
「ぼ……僕……僕は……」
蹴られたショックで呼吸困難になったネズミは、息も絶え絶えに「僕は、僕は」を繰り返している。
「うるせぇ! 成田さんの制服でセンズリやがって! 変態ヤロウ! 成田さんが登校拒否になったらどうするんだよ、このクソネズミ!」
 宮脇は、まだもがいているネズミを蹴りつけながら言った。
女子の小さな悲鳴、その隙間から聞こえる呪詛のような呻き――「キモイ」「死ね」「変態」。
ミツオはニヤニヤしながら見ていた、ネズミの黒い制服に無数の白い足形がつき、眼鏡が吹っ飛び、鼻血で顔を塗らす様を。
 騒ぎを聞きつけた教師が「喧嘩はやめなさい!」などと、まったくのお門違い甚だしい台詞を叫びながら教室に飛び込んできたとき、ネズミはあと少しで死ぬんじゃないかと思うくらい、ズタボロになっていた。
教師が宮脇を羽交い絞めにし、二人を引き剥がす。
ネズミは片手で鼻を押さえながら、眼鏡を探す――見つかった眼鏡は、捻じ曲がっていた。
武田がすっ飛んできてネズミを立たせ、もう一人と一緒に生徒指導室へ、二人を連行して行った。
「フェラチオ、片付けとけよ。」
 宮脇とネズミが教師たちに連行され、すっかり見えなくなったのを確認したミツオは、笑を堪えながら言う――フェラチオというのは、ミツオがオレにつけたあだ名だ。
ミツオの言いつけに従って、オレはネズミの机と椅子を元に戻し、床に散らばった教科書やノートを集める。
 ノートに宮脇のものではない、小さな足形がうっすらと残っていた。
この大きさ、もしかすると女子だろうか……表立って暴力を振るったりはしないけれど、陰でコソコソいじめる、なんて陰湿なヤツだろう。
けれど、オレだって人のことは言えない……。
 ノートや教科書の中に、茶色い表紙の本が混ざっていた。
白い活字でデカデカと「地底旅行」というタイトルが書かれている。作者は――オレが大好きな「海底二万マイル」と同じ、ジュール・ヴェルヌだった。
オレはなぜか、その本を制服の中に隠し、自分の席に持ち帰った。